判断能力の判断は誰がするか

「現代倫理学入門」加藤尚武
本棚から久しぶりに出してきた本。
これの第6章が「判断能力の判断はだれがするか」ということをとりあげています。

私は「統合失調症」を患っており、陽性症状がぶり返したりして、危険な状態になったら場合によっては「自傷他害のおそれあり」として入院させられてしまう可能性があります。この場合、私の人格は認められず、周囲の人間の判断によって保護室等への隔離や鎮静剤などの投薬によって自由を奪われてしまうことでしょう。

大事件などでは、「心神喪失」や「心神耗弱」として罪が減刑されたりして、しでかしたこととその償いとのアンバランスが問題になったりします。

でも、誰が他の人間の判断力の有無を判断できるのか?

まともな判断力を持った人間とは誰のことなのか?
裁判員制度の根っこの問題でもあるかもしれません。

みんなの合意で判断力があるかないかを決めるなら、そのみんなの中に私のような障害者も含まれなければなりません。これは加藤氏が例に出してる人種問題で「黒人」が奴隷として人格を持たない存在として扱われることが妥当かどうかを「白人だけ」で決めることが正しいのかという問題と同じだと思います。

で、多数決が正しいかというとそんなことはなくて、少数者が正しいということも十分ありえるわけで、さらには多数決に参加できない未来の人々が現代の浪費社会に異を唱えようとしても不可能だったりします。未来の人から見たら現代先進国の人間はみんな狂ってると思われるかもしれません。

 
 
そんな前振りをしておいて、最近コツコツやってる事例検討を考えてみます。
まだ勉強中でその真意を汲み取れていないところがあるのだけれど、今、思うことです。

精神保健福祉士になる勉強なので精神障害者にどう対応していくかということが中心になるわけなのだけれど、「当事者の意見」を大切にということが示されます。

当事者からの意見の聞き取りの場面などが出てくるわけなのですが、結局現実的な対応としては障害者を社会に適応できるように指導するという形になってみたり、指導する側から見て都合のいいことに着目して、それを「ストレングス」と言って伸ばしていこうとします。あるいは、「本人が気づくのを待つ」といった形で当事者が援助者の都合のいいところに落ちてくるのを待つ(ように私には思われる)場合もあります。

現実的に暮らしていくためには、社会と折り合うのは必要ですが、社会が正しいかどうか判断するのは誰なんでしょう?正しいというと語弊があるかもしれません。でも、常識というかたちで何かが存在しているように感じます。世間というのはそんなに正しいものなのでしょうか?世間がなければ生きていけないのは確かなのですが・・・。

また、「ものは言いよう」で、事実の解釈の仕方で評価はどうにでも定まる場合があります。ポジティブな側面を強調すれば正しくなる行為もネガティブにとらえると悪いことになる・・・?判断はどこに基準を置けばいいのでしょう?
 
 

話は変わりますが、いま、非正規雇用者の解雇が問題となっています。で、「非正規」ってなんだったんでしょう?雇用はされていないけど雇用されてるって意味だったのでしょうか?(まあ、社会保険に入っているかいないか、などで経費が削れるかどうかが境目なのだろうけど。)このあたり、世間一般の大多数が正しい判断をできていたかどうか極めて疑わしいと感じたりします。否応なしに政治的な判断で決まった仕組みに振り回されてる方も多いんでしょうが。。

そんな世間の正しさは、障害者にも降りかかっています。
障害者の通う地域作業所の工賃は最低賃金を大きく割っています。「雇用」ではないからOKらしいです。それだけの能力がないのだから仕方がないという理屈なのでしょうが、それって正しいのでしょうか?

街へ出ると、閑職(というと失礼だけど)で生計を立ててる人も大勢いるのだから、なにかやりようがあるはずだと思います。長い目で見れば淘汰されていくのかもしれないのですが。

いま、製造業を中心に不景気でコストダウン圧力が高まっていたり、人員削減をしたりと大変なことになっているらしいです。乾いた雑巾を絞るようにコストダウンしていたところにさらに圧力がかかるのだからたまったものではないだろうと思います。そして、一回コストダウンに成功すれば、逆に好景気の場面で納品価格に上乗せした御祝儀くれたりするのでしょうか?まあ、仕事の発注は増えるのでしょうけど、カツカツの状態で仕事を増やされるわけですから下請け中心に苦労は不可逆に増すわけで・・・。

これって、どっか狂っていないでしょうか?私の認識が被害妄想モードに入ってるのかもしれないけど、判断力の正しさを判断するということを考える時、いったい何が正しいのか判断できる人はいないのではないかと思われてくるのですが・・・。

偉い学者さんの学説を持ち出すほどの能力が私にはないので、素朴になんか変だと思うわけですが。

よく障害者福祉の世界では「あたりまえの暮らし」とか言われてて(今度のスクーリングまでにそれに関してレポートを書かなくちゃならないのだけど)、「あたりまえの暮らし」を考え始めて、いまそのへんにいる普通の人って「あたりまえの暮らし」をしているのか?と大きな疑問を抱えるに至りました。いま、世間の人と同じ苦労を障害者に求めたらつぶれるに決まってます。みんな「あたりまえ」に死ぬか生きるかの生活をしている。そんな気がします。それは早とちりでしょうか?

障害者があたりまえに働いて暮らすために、仕事としてパンを焼いたり、クリーニングや喫茶店やいろいろな挑戦をしているところがあるのは承知ですが・・・。世間との間に断層があるように思えるのですが・・・。そこが長所でもあり短所でもあるのでしょうか。

レポートの出題意図は別なところにあるのでしょうけど、世間の判断力が狂っていそうなのに、世間にインクルージョンされてその中でエンパワメントされていくという図式は、なんか違和感を覚えます。狂った世間を基準にノーマライゼーションされたらどんなことになるのやら。カタカナ語ってひとをケムに巻くには便利です。

まあ、狂っていなかった時代がかつてあったかというとそれはそれで疑問もあるのですが。
精神障害を世間に知らしめていこうと考えたりすると世間の狂いにも目を向ける必要があるわけで。 
「あたりまえ」っていったいなんなんでしょうねえ?
 
 
えーと・・・。多分私が狂っているんでしょう。
なんかまとまらなくなってしまいましたが、宿題が終わらなくてパニックに陥ってることだけご理解いただければと思います・・・。

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