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「あたりまえの暮らし」ってなんだろう?

福祉の目で精神障害者を語る時によく言われる「あたりまえの暮らし」。
いま、レポートを書くために悩んでいます。

「あたりまえに苦労する」ことが言われてみたり、ノーマライゼーションとからんでみたり。
症状から生じることを素直に受け止めることなのか?
素直に受け止めた上で福祉関係者に必要なことを必要なだけ求める・・・?

それは「世間並み」とは違うのだろうとは思う。
「普通」という言葉もあてはまらないかもしれない。
(そもそも普通ってなんだ?)

統合失調症を患って、「喜怒哀楽」が変調をきたしているときには、世界は「あたりまえ」には見えない。そこから社会に結びついていくことが「あたりまえ」への道なのか?でも、「幻聴」「幻覚」の存在する世界で生きていくことになりそれは「あたりまえ」なのか?

精神保健福祉の勉強をしていく流れの中では困った時に適切な援助を得て、自分の意思で自由や権利を行使できるということが大切だということになるのかもしれない。まだ勉強中で自分の中でまとまらないけど。
 
 

でも、逆に世間一般の人は「あたりまえの暮らし」をしているのだろうか?
サービス残業や休日出勤に追われ、低賃金で解雇におびえ、パワハラに悩み、明日が読めなくて・・・。その結果、精神障害に追い込まれるような暮らしをしているわけで。

それが「あたりまえ」になっている。自分の意思ではどうにもならない毎日。
普通の人が「あたりまえの暮らし」ができていないのに障害者にそれができるのか?
いや、「あたりまえ」に暮らしているから「あたりまえ」でない生活が可能になっている?
なんだか混乱してきました。
 
 

それとも、厳しい中で小さな幸せをみつけてささやかに暮らしを営むことなのか?
苦しい中でもがんばって生きている人はいっぱいいる。

たとえ、努力が報われなくても、毎日をやりすごしていく。

「あたりまえ」を実感することはないのかもしれない。
狂っている世界での「あたりまえ」は実感してはいられない。

 
「あたりまえの生活を奪われた・・・」などというフレーズに出会ったりする。そんなときこの社会ではいろんなものが奪われている人間が「あたりまえ」なのにと思ったりする。大事なものの欠落を受け入れてゆくことが「あたりまえの暮らし」なのだろうか。

 
 
 
金曜日までにまとめてレポートにしないとならない。
勉強不足を痛感します。

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追記
2008/12/09 AM5:40
AM2:00に寝たのにもう目が覚めた。昨日昼寝したせいだろう。
アモバンの効力が切れたと同時に目が覚めた模様。
・・・「あたりまえの暮らし」、できていない・・・。

あさ: 山ほどの病気と資格と怨念と笑いで腹と頭を抱えてのたうち回っております。何であるのかよくわからない死に直面しつつも、とりあえず自分が死んだら、皆が幸せになるように、非道な進路を取って日々邁進してまいります。
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