「あなたは当事者ではない <当事者>をめぐる質的心理学研究」
宮内 洋・今尾真弓 編著
を読みました。
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「当事者」についての研究の仕方についての考えについての論文集でした。
有名なべてるの「当事者研究」についても少しだけ触れられていますがそれとは異質な感じを受けました。と、いうか研究者のスタンスについての本でしょうか。
人は生きてる以上、何らかの当事者であるのですが、その当事者が他の人を、つまり他の「当事者」と関わる場合どんな関係となるのか。どんな視点で関係を見ることになるのか。いろいろ研究するにあたって専門家としての視点と当事者としての視点をもつということはどういうことか。それらの切り分けはどうあるべきか。<当事者>と<非当事者>と、その境域から考える・・・と言う内容です。
正直言って、論文ごとに焦点が異なっていてまとまった結論みたいなものはないのですが、私たちは、自分が何者であるか無意識にも意識的にも何らかの形で持っていて、そのうえで日常を送っています。何かを研究すると言う時、客観的な視点からものごとをとらえようとする場合、研究者の持っている当事者性が出てくるために客観的であると言うことが難しくなります。当事者でないから分かることと、当事者であるからこそ分かることがあるようです。
たとえば自分が「女性」であることの当事者である場合、男性相手のときと女性相手のときでは同じことを観察をしても異なった回答が予想されます。日本人が日本人を見るときと外国人が日本人を見るのでもやはり異なります。見るほうと見られるほうのどちらが当事者でどちらが当事者でないかの違いによって、ものの見え方が違ってきます。
ここから自分のことについても含めて。私は統合失調症の当事者です。だから統合失調症のことはよくわかるかと言うとそうではない。同じ病気を持つ方のことを非当事者の人から見た場合以上に理解できるわけではありません。自分の体験については実感を持って語れるけれど、他の当事者とはしてきたことも感じ方も違うわけで、そこは健常者同士でも分かり合うことが難しいと同様に、他の当事者について理解することは難しい。
でも、話を聞いて「その感じよく分かる」とか「それと同じことを経験した」とか非当事者とは明らかに違ったものごとの捕まえ方ができることがあります。利点でもあるし、分かったつもりが危険な時もあります。
「共感」を持つことの微妙なさじ加減は、難しいです。
明らかに個人同士は異なります。でも、共有できるものもあります。
この本の152ページにある図が印象的です。
二つのコップが置いてあります。そこに別の色の水をそれぞれに注ぎます。
やがてあふれだすとコップの周りに水たまりができます。
そこにはどちらに注いだ水とも異なる色だけれど共通の色の水たまりになっています。
実際はそんなに簡単ではないでしょうが、当事者同士でも、当事者と非当事者でも、互いに共有できる何かはあるわけです。
基本的に私は他人のことは完全に理解することはできないと思っています。
コップに注いだ色水は違う色であって、片方がそれだけで別の片方と同じ色にはなれません。でも、コミュニケーションを取ることによってある臨界を越えてコップから水があふれると、混ざり合った部分は了解できるものになりえるのでしょうか。混ざった色だから他人そのものではないけれど、自分の色と混ざっている分、分かりやすい。その部分については共有できる何かがある・・・なんだかたとえがややこしくなりましたがそんな感じを受けました。
頭の中で考えていてもしょうがないので、これから何かするとき、自分と相手の関係にどんなことが起こっているのか注意深く観察できるだけの余裕を持てるようになればいいなと思いました。
現状、今の私では、その場その場を切り抜けるので精一杯。この本の執筆者の方々は自分が何かの渦中にいながら自分と周りの人を同時に冷静に観察しています。こんな視点の切り替えができたら日々の暮らしが楽になるのかもしれないとちょっぴり思いました。
それがいいことかどうかはわかりませんが。