健常者との対話。は疲労する。二次的障害について。

障害に理解ある人とでもやはり健常者との対話は気を使います。

何に気を使うかというと、障害について気を使わせないように気を使う。

・・・ということに気を使っていることについて気付かれないように気を使う。

ことによって、疲れていることに気付かれないようにも気を使う。のでした。

 
なんだかね。

社会復帰して健常者に紛れているとオープンだとこの苦しみがあります。
クローズだとこの苦しみはない代わりに、
気を使ってくれないことによるハードな待遇が待っています。

なんなんだろうね。

理解されることによる、この居づらさ、生活のしづらさってのは。

一種の社会的障害。二次的障害。体験としての障害?

ジレンマの一種ではあるのですが、気にしない様に心を鍛えなければいけませんかね?

 
 
 
今日は近所に街宣車の群れが多数押し寄せてきていて圧倒されました。
彼らには、精神障害者の持つマイノリティとしての繊細さとは対極にある
マイノリティとしての傲慢さがあるような気がします。

だって、路上駐車で幹線道路渋滞させて平気だもん。

主義主張を表現するのに、ああするしかないのかと疑問に思います。
つうか、これってデモとかにも通じることであるわけで、
原発反対デモや、貧困撲滅デモなんかはどうなんだと言われてしまうと、
同列に扱うべきかどうか悩むところです。

意思の表示にもっとスマートな手段はないのかなあとか、
障害者の権利を主張するにあたって同様のことをしていいものかと悩ましかったり。

私は、暮らしにくさを感じているすべての人間は障害者であると思う故、
健常者なんて一人もいないとは思うのですが、
自分を健常者だと思っている人は、健常者なのだろうかとも思うわけで、
そこは個人の意識にかかってくるのではなかろうかとも思います。

街宣車を見て思うのは、ああ、彼らも障害者なのだなあ。・・・とか。

不謹慎でしょうか?危険でしょうか?障害者に入れてはいけないのでしょうか?
彼らは暮らしにくさの改善を目的とはしていないのでしょうか?

・・・行動障害・・・という言葉が脳裏をよぎったところで黙っといたほうがいいなと思いつつ、自己の暮らしにくさを感じない人達がいる可能性はあるのかないのか、感じないというより、気づかないというパターンもあるのか?ある場面では障害者で、違う場面では障害者ではないという多面的な人間存在をよく認識せねばいけないのだろうかと色々考えを巡らせます。

少なくとも、完全に健常な人はいないのは確信してはいるのですが。

だったら、障害についての枠の考え方を再考し、国やら自治体の施策は違った軸で組み替えなければいけないと思うのでした。

「生きづらさ」ってのが蔓延しているあたり、根っこは深そうです。

4 comments

  1. シバ says:

    日曜、渋谷までニャラルトホテプ降臨祭ってのイって来たが、
    健常者なんてどこにも居なかったがのぉ

    生きづらそうでも無かったが、
    普通に暮らすのには困りそうな人がいっぱい居た。
    会話が成立しない的なー

  2. あさ says:

    >シバ さん

    それみんな2D中毒の嗜癖に関する障害っぽいなぁ。
    病識がなくとも障害はあるのですよ。

    ・・・的なー。

  3. あさ says:

    >シバ さん

    熱病ですねぇ。

    早く病院へ行けばいいと思うよ。

    行っても治らないけれど。

    だってしょうがいだもの。みつを。

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