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青く見える庭の幻……思い込みの壁が生む空虚な主張

 とある町はずれに、やたらと自信満々な人物が暮らしていた。彼は折に触れて「大きな目的を達成するのは重要だ」と声高に主張し、口ぶりだけは非常に雄弁である。だが、その具体的な内容はと言えば、ほんの些細な計画だったり、つい鼻で笑ってしまうような日常的な行為だったりする。周囲は「本人の自由だから構わない」と見守っているが、なぜか彼は「自分だけは特別な道を歩んでいる」と信じて疑わないのだ。

 さらに面倒なのは、彼が他人を低く見る発言を繰り返しながら、「むしろそれは人間の心理として大切なことだ」と謎めいた論理を展開する点だ。どうやら、心の中に渦巻く複雑な感情を肯定しようとしているらしい。ところが、よくよく聞けば「要するに自分のほうが優れている」という結論に落ち着いていて、結局は他者に対する配慮がまるで感じられない。

 彼いわく、「他の人の持ち物は魅力的に見えるが、自分のほうがさらに価値あるものを所有している」。どうしてそう確信できるのかは明らかにしないが、「昔、小学校でそういう話を聞いた」と自慢めかして語る。とはいえ、その話自体を真摯に受け止めているわけではないらしく、「自分は本当にわきまえて生きている」と周囲に言い張っているだけに見えるのが痛々しい。

 その一方で、彼の暮らしぶりを聞いてみると、維持に手間や費用がかかる乗り物にあれこれ手を入れる必要があって大変だという。だが、それを嘆くかと思えば「こういう面倒をいとわない自分はすごい」とすぐに自己肯定へ話をすり替える。日常の些細な話題を持ち出しては「実はこれはすばらしいことだ」とアピールするので、身近な人々はどう反応していいのか戸惑うばかり。

 もうひとつやっかいなのは、彼が調子づいて語る中で、時々「これをしないと危険だ」とか「長時間使い続けて不具合を起こさないようにしないと」などと妙に大袈裟な表現をすることだ。実際には、そこまでのリスクは考えにくいのに、あたかも自分だけが特別な警戒心を持っているかのように語り、「だからこそ自分は偉いのだ」と言わんばかり。

 町の人々は、彼の語りがだいたい自己矛盾だらけだと薄々気づいていた。なぜなら、「人は互いを羨むものだ」と言いながら、彼自身が他人の功績や新しい挑戦を見下す言動を繰り返しているからだ。「自分が周囲からどう思われているか?」にはあまり興味がないように見えて、実は「見られる自分」が大好き。そんなちぐはぐな姿勢を、周囲は苦笑いとともに眺めている。

 そもそも、多くの人が本当に大切にしているのは、口先だけの“意気込み”ではなく、一歩ずつ積み重ねる地道な行動である。目立たなくとも本気で励む人は、わざわざ他者をさげすまなくても、自身の努力を正当に評価してもらえると知っている。一方、彼のように大げさな表現で自分を美化し、周囲を嘲笑する態度では、いつまで経っても本当の意味での称賛は得られない。

 それにもかかわらず、彼は毎度、まるで深遠な哲学者にでもなったかのような顔をして、同じような話を繰り返す。口調だけは「理知的に世の中を捉えている人」を気取っているが、実際には「自分の庭のほうが素晴らしい」と言いたいだけ。そこに説得力は皆無だ。ましてや他者の気持ちを推し量るような思いやりの言葉はなく、ただ自身の満足を得るために思考を組み立てているだけなのが透けて見える。

 人には誰しも、自分の生き方や価値観を持つ権利がある。だが、それが“他者を軽んじるための道具”に堕してしまえば、いずれ誰も彼の話に耳を傾けなくなるだろう。口ではいくら独自の理論を並べたところで、矛盾をはらんだ論理と薄っぺらな優越感は、思いがけないところで信用を失わせる。

 彼が本当に自分の考えを大切にしたいのなら、まずは目の前の現実に目を向けるべきだ。周囲が自分をどう見ているかよりも、自分が周囲をどう見ているか――つまり、相手への敬意や思いやりを置き去りにしていないかを振り返ることが先決だろう。そういった配慮を忘れたまま、“自分だけは特別”という言葉をまくし立てても、誰の心にも響きはしない。

 本当に大きな成果を示したいのであれば、他人を遠ざける物言いではなく、むしろ協力を得られるような振る舞いを選ぶのが賢明というもの。表面的な言葉で威圧するより、誠実な姿勢で一歩ずつ実績を積んだほうが、はるかに得るものは大きいはずだ。

 結局のところ、口先だけで語る“すばらしい庭”など幻にすぎない。もし彼が「他者の意見も取り入れ、共に成長する」という姿勢を身につけたなら、その庭には実際に花が咲き、人々が集い、彼自身も満たされる日が訪れるに違いない。だが、今のまま自画自賛と他者への冷笑を続ける限り、そこに芽吹くのは不満と空虚さの種ばかりではないだろうか。

 いまだ彼に変化の兆しは見えない。それでも周囲の人々は、ごくまれに彼が素直な言葉をこぼす瞬間に期待を寄せている。いつの日か、この“青い庭”の幻想から抜け出し、実直に地面を耕しはじめる日が来るかもしれない――そう信じる人もいるのだ。言葉を並べるだけの高邁さなど、実践という名の光を当てればすぐに薄れてしまう。彼の庭が幻ではなく真の輝きを得るかどうかは、自分勝手な論理を脱ぎ捨てられるかにかかっているのだろう。

あさ: 山ほどの病気と資格と怨念と笑いで腹と頭を抱えてのたうち回っております。何であるのかよくわからない死に直面しつつも、とりあえず自分が死んだら、皆が幸せになるように、非道な進路を取って日々邁進してまいります。
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