こんにちは。 あさ といいます。
統合失調症を患って長くなります。私はいわゆる「精神障害者」です。
1993年4月に発病。大学を卒業し、大学院に進学するまさにその時でした。
工学部で機械を学んでいました。
病状はこんな具合でした。
以前から学校では孤立気味でした。レポートなども他人のものを写すなどはせず、すべて自力でやっていました。ノートを借りることもありませんでした。周りからは変わり者だと思われていたことでしょう。
そして、短い春休みに一気に発症しました。
春休みの間に、研究を少しでも進めよう。・・・そう思って、学校の研究室へ出かけたり、図書館で当ても無く読むべき本を探したり。ホームセンターで自作しようと思っていたロボットの部品を探したり。自転車で1日に十数キロは動き回っていたと思います。
革新的な人工知能を作り出すためにパソコンで延々プログラムをいじったり。
認知心理学や哲学書を読みふけったり。(正確な理解はできていなかったでしょうが)
眠る時間も惜しんで学んでいました。
「1993年4月1日に自分に何かが起きる」そういう妄想を持っていました。
当時よく聞いていたラジオが自分が話し掛けると反応する…。街に出ると、いたるところの放送が自分のことを放送しているように聞こえる。下宿の天井には小さな穴が開いていたのですが、そこからCCDカメラで盗撮されており、トイレの中までTV局で放送されている…。街に出ればTVを見た人と思われる人からひそひそ遠巻きに陰口を言われ、バスに乗れば後ろの席の小学生に馬鹿にされ笑われる。常に監視され、馬鹿にされている。商店街を歩けば私を追跡するように案内放送が流される。郵便局で切手を買えばにやりと笑われる。しかし、それは4月1日の日のための準備なのだ…。
何か大変なことになる…4月1日が近づくにつれて恐怖は高まっていきました。家の前に車が止まれば監視の交代要員が来たと思い、二階は監視のための機材が設置されている。隣の部屋は放送局の出張スタジオになっている!
こんなことがゆるされていいものか!思い余って警察に電話しました。当然、取り合ってはもらえませんでした。
3月31日夜。いよいよ明日、何かが起きる。両親に電話で大変なことが起きるかもしれないが我慢して欲しい…と、伝えました。親はすぐに下宿に飛んできて私のただならぬ状況に困惑していました。
4月1日。何も起こりませんでした。
この日はラジオ局が局名を変更するその日だったのです。
当時流行のCI(コーポレート・アイデンティティ)戦略ってやつでしょうか?
この数ヶ月前からキャンペーンでいつもと違った放送を繰り返していたのでした。
ちょうど運悪く、私の病気が重なって、妄想と絡み合ってしまったのでした。
大学の保健センターへ行って、保健師さんに相談をすると医師を紹介していただきました。保健センターでの診察のあと、その医師の車に同乗して病院へ。薬をもらって実家で静養を取るようにとのことでした。
実家へ向かう電車の中では、私を見てクスクス笑う人、ひそひそ陰口を交わす人、同情して涙を流す人…そんな幻覚で大変つらい帰宅でした。
しばらく家で休養を取りました。家についていきなり2日間ほど眠り続けました。その後もずっと睡眠は多く、こころの疲れはかなりのものだったようです。少し回復した頃、復学を考え少し大学院へ通ってみたのですが、思考能力がまるでなくなっていました。以前なら読めた英語の論文が日本語に訳せなくなってしまいました。大学院の授業は洋書の輪読が多く、ついていけなくなった私は休学することになりました。
家にいてもよくならないため、近所の総合病院の精神科病棟に入院を勧められました。入院3ヶ月。畳敷きの部屋に10人ほどが同室でした。楽しいこともなく淡々と日々は過ぎ去りました。看護師さんたちはいろいろ手を尽くしてくれるのですが、私にはそれに応える体力がありませんでした。ボードゲームやキャッチボール、釣り、散歩・・・何もかもが苦痛でした。
病院の近所の作業所にも入院しながら通いました。内職仕事を黙々と。1日100円~300円の工賃で給料袋は新聞チラシを封筒に折ってはりあわせたものだったのが印象的でした。一般世間とかけ離れた世界に呆然としました。
他の患者さんがいることが私にはストレスになっていることもあり、実家に退院しました。
その後、約5年のひきこもり。昼夜逆転していました、でも、少しずつ回復はしていきました。近所のコンビニにジュースを買いに行ったり、床屋に散髪しに行ったり。大学院は退学することになりました。悔しかったです。
本屋に行ける様になって読書ができるようになったのは大きな喜びでした。少ない小遣いで買える新書をたくさん読みました。
1998年6月。ある日新聞を読んでいると一枚のチラシが。車で20分くらいのところで遺跡の発掘をするとの事で作業員を募集していました。家にいるのが気詰まりだったこともあり、思い切って応募してみました。運よくアルバイトとして雇っていただき、働くことができるようになりました。
毎日、炎天下で土を掘る作業。体を使った労働は回復には大変良かったようです。定年後のおじさんおばさんが多い職場なのも良かったところです。みなさん人生いろいろ経験なさってきたかたばかりで、私にも気を使っていただけたと思います。ありがたいことでした。そして宝探しのような遺物の発掘。つらいけど楽しい仕事でした。
そのうち土を掘るだけでなく、遺跡の記録を残すために測量作業を手伝うことになりました。理系の若者ならと、トータルステーションやレベル(測量機器の名前です)の使い方を教えていただき、写真撮影を手伝い、これまたいろいろ楽しかったです。
測量作業をだいぶ任せていただけるようになったことから、興味が膨らんで測量の資格を取ることを考えました。
まずは「測量士補」。古本屋で参考書を買ってきて勉強しました。
試験は高校生がいっぱいの中で緊張しましたが、一発で合格できました。
この頃からこれから自分はどう生きていけばいいか考えることが多くなりました。
資格が取れたのはひとつの手がかりになりました。この道をもう少し深めようと思い、上位資格である「測量士」をとることにしました。この資格があれば独自に開業することもできるそうで、大きな期待を持っていました。この資格は、一般的には実務経験で取得する方が多いらしいのですが、試験で合格することでも取得できるということを知り、例年合格率10%ほどの試験に挑戦してみました。参考書や問題集は実質、測量協会の出しているものしかありません。不思議なことなのですが、大手受験産業の網の目から完全にもれている資格なのです。通信教育で教える講座も測量協会にあるそうなのですが、それにかけるお金もなく、独学で挑むことになりました。
県立大学での試験には100名強の受験生が集まっていました。午前、午後の長い試験を終えたときは精根尽き果てたという感じでした。午後の試験は記述式、解答速報なんてありません。結果が気になる日々をすごしました。
合格は無理だろうと思っていたこの試験、インターネットで発表を見てびっくり。合格していたのです。県下で9人の中に入っていたのです。ほんとうにうれしかったです。
「資格がとれるとうれしい。」自分を認めてもらえることが出来たようで、もっと資格が取りたくなりました。
測量のデータはコンピュータで処理されます。大量のデータを扱うには専門知識が必要だろう。と、考えてつぎの目標は「基本情報技術者」に定めました。パソコンは日ごろ使っており、大学学部の卒論もコンピュータのプログラム関連でしたから、やっぱり独学でクリアしました。
ここで、ちょっと考え違いを起こしてしまいました。遺跡発掘ではずっとアルバイトでいるしかない。測量会社に入って正社員になれないものだろうかと考えてしまったのです。
アルバイト求人誌を見て時給1000円の測量会社の求人を見つけました。当時、通勤に自動車で片道1時間半~2時間かかって遺跡に通っていた私は(通勤手当が出ませんでした、しかも有料道路通過に片道400円!)だいぶくたびれており、家から30分のこの会社に転職することにしました。
この会社、大きな測量会社から独立を果たしたばかりの社長と奥さん、たまに息子が手伝いをして、外部から助っ人を呼んできては仕事をこなすという零細事務所でした。「自宅が仕事場」という測量会社でも最底辺に飛び込んでしまったことになります。仕事は薄く、朝出かけていくと「今日はもういいよ」と、30分で帰宅ということも。時給制ですからたまったものではありません。ほかにもいろいろあって半年ほどで辞めることにしました。
この測量会社で働いている間に、「ソフトウェア開発技術者」の資格を取得しました。得意分野ですから仕事をしながらクリアできたのだとと思います。私が資格を取ることに興味があることを知った測量会社の社長さんは「行政書士」をとるといいよとアドバイスをくださいました。農地転用などで測量士と合わせて使うと有効な資格ということでした。
測量会社を辞めてしばらく失業生活が続きます。
その間、行政書士の勉強に集中しました。大学の教養科目で憲法は習いましたが、測量関係以外の法律はまるっきり素人でした。基本書を一通り読んで過去問を必死でこなし、本屋で買ってきた模擬試験を解きました。一般教養科目での出題分野が異常に広く、苦労しました。対策が立てづらい問題に対して、マークシートでの試験のコツのようなものが身についてきたようです。
結果、合格。
しかし、この資格をどう活かせばいいのかまるっきりわかりませんでした。
近所にある工場が新設されるということで、従業員を募集してたのですが、面接で「行政書士の試験に合格しました」と言っても「それは何をする資格ですか?」といった具合で、鼻で笑われました。資格は取ったものの就職活動には役立ちませんでした。
途方にくれ、また測量に戻ろうと思い、大き目の測量会社に臨時アルバイトで入りました。
大きいところは大きいところなりに大変な仕事が待っていました。
山林の開発に伴う測量・・・崖を這い登り、滑り降り、鉈で木々を伐採し、下草を除去し、急斜面で重い測量機器を運び、設置する。固い地盤に杭を打ち込む。道路のないところに道路を作り、傾斜地を均すために断崖を把握する。人が出入りできないところ、地図のないところに赴いて仕事をするのが当然の世界です。しかも1キロメートルの距離をミリメートル単位の誤差で測りだすような仕事をしなければならない。現場というのは試験からは想像を超える厳しい場所でした。
冬になるとちょっと変わった仕事にまわされました。コンクリートというのはセメントと砂利と水を混ぜて作ります。このとき水分量を間違えると劣化した構造物が出来上がってしまいます。建設現場ではミキサー車が工場からコンクリートを運んでくるのですが、水分量が正確か調べなければなりません。いろんな方法があるらしいのですが、その新しい方法を研究する手伝いにかり出されたのです。測量会社の地質調査部門の手伝いです。
ある市内に一軒家を借りてスタッフは泊まりこみました。そこから朝4時起きで出発。建設現場で機材をセットし、次々運ばれてくるコンクリートのサンプルを取り、中性子線(放射線ですね)をあてて水分の量を計ります。計測器から出された測定済みのコンクリートと容器を水洗いするのが私の仕事でした。ゴム手袋一枚をつけ、氷点下でアルミの器に入った1キログラムくらいのコンクリートをかき出しきれいに水で洗浄する。けっこうきつい仕事でした。ミキサー車からコンクリートを運ぶだけでも重労働です。それに加えて氷点下、放射能・・・。
この測量会社には春の契約満了までお世話になりました。
ここにいる間に日商簿記3級を取得しました。パズルみたいで楽しい問題が多かったです。
測量という仕事はとてもきついことがわかり、さらに地籍測量などでは地主への対応など臨機応変の仕事が必要なこともあり、自分には向いていないと思いました。次の仕事探しに当たって、単調でもいいから決まったことを決まっただけやって定時で帰れる、変化のない仕事はないかと考えて探し始めました。病気のことはまだクローズです。
近所に昔からやってるプラスチック成型の工場があります。ハローワークでそこの求人を見つけ、働くことになりました。3交代制の夜勤もある職だったのですが、決まったことをこなせれば勤まるだろうと考えていました。最初の話では「残業は無いからそれで稼ごうとは思わないでくださいね」とのことだったのですが、入ってびっくり「残業地獄」でした。先の言葉は「残業が無い」のではなく、「残業代はでない」という意味だったのです。
この工場、設備の保守もいい加減。品質管理もいい加減。生産計画もいい加減。社員教育もなし。現場は混沌に支配されていました。しかも従業員の人件費を削るため現場は外国人労働者が主力。社員は休憩時間も取れず、夜勤明けでも残業を強いられ、頻発する不良品に対応するために入ったばかりの私が客先に出向いて頭を下げて不良品を選別してくるといういい加減さ。(初めて見る製品の品質管理のクレームにどう対応しろというのか・・・)最小限度を下回る人数で工程を回すため、30秒で1個づつ、さらにそれが4台の別々の成型機から出てくる製品を一人でチェック、包装、袋詰めするなどハードな状況でした。給料は良かったのだけど(月20万)残業代はつかず、夜勤手当は月に数万円つきました。
休日は死んだように眠っていました。体調を次のシフトに合わせるためにも必要でした。お金はたまりました。何も出来ないのですから。ここでの貯金が現在の私の生活を支えています。
半年ほど現場で働きました。すると社長が私を生産計画を立てる仕事に就かせようと、幹部の集まる会議に出席させるようになりました。同時にISO取得のための書類作りも任されました。・・・チャンスと思いますか?しかし、私が入社する前にその仕事についていた方は会社の仕事に追われ家庭が崩壊し、さらに体を壊し、亡くなってしまわれました。仕事の引継ぎも無く、助けを求める相手も無く私は途方にくれました。現場と事務所を駆け回り一日16時間働く日々で私も限界を越えました。他の従業員はそれでも頑張っていました。外国人労働者の皆さんは明るく12時間交代の勤務をこなしていらっしゃいました。私は工場でも勤まらないんだとがっかりしながら辞職しました。
この会社ではフォークリフトの技能講習を受けさせてもらい、その修了証が取れました。そこは収穫なんですが、受講料は自腹でした。仕事に必要だから取ると言うのに・・・。「資格は個人のものだ」というのはなんか腑に落ちませんでした。
また失業状態です。ハローワークに通い始めました。するとキャリアカウンセラーの方がパソコンが得意ならインストラクターの講座をやってるから通ってみたらどうかと提案されました。悪い話ではないと思い、家から50キロ離れた職業訓練校に通うことになりました。
内容は、ワードとエクセルとパワーポイントとアクセスを少し。退屈でした。MOUS試験合格が目標とされ、とりあえず「一般」のワードとエクセルを取得できました。しかし、受験料が1回1万を越える試験です。財力の限界への挑戦でもありました。当時、最新のword,excelはバージョンが2003だったのですが、試験の方は試験ソフトの開発が遅れていて最新バージョンの試験が受けられませんでした。私の合格したのはバージョンがXPでした。上位資格もあるのですが、新しいバージョンが出るたびに受けなおすのはもったいないと思って受けなかったのですが、今思ってみれば、上位資格を取っておけばよかったと思います。
私がパソコンに関して妙に詳しかったので、この講座のインストラクターさんに目をつけられ、「うちのパソコンスクールで働いてみないか?」と誘われました。これは渡りに船だと思って、社長と面接し、アルバイトすることになりました。
で、仕事がなんだったかというと2週間前まで生徒をやっていた職業訓練校の講師。私が教えてもらっていた時はサブインストラクター付で2人で教えていたのですが、私はなぜか一人きり。朝から夕方まで休みを挟んで6時間一人でしゃべくり倒すという日が続きました。ワード、エクセルはいいものの、しまいには「基本情報技術者」の講座をやれとのお達しが。この職業訓練校、通ってくる方は真面目な人も多いのですが、失業手当の期間延長のみを目的に来る方も多く授業をまとめていくのがそれはそれはたいへんでした。授業中に18禁サイトを閲覧ししかもそれをプリントアウトする学生がいました。プリンタは共有で、スプーラに残っていたデータが他の先生の授業中に出力されたらしく、だいぶ嫌味を言われました。
4月からワード、エクセルを教えながら、授業の準備なしにいきなり6月から基本情報技術者の講座を教えろって言われても困ってしまいます。教材は教科書のみ。文字入力すら満足に出来ない人を基本情報技術者取るまで育て上げる・・・。いっぺんに30人の受け持ちで。
自腹で問題集を集めてきて、配布資料を作成し、講義の内容を考える。講義は週5日。授業後と土曜日はパソコンスクールで事務仕事。このスクールでは基本情報技術者の講座を行った前例がありませんでした。
結局、私には無理でした。時給は1200円と、良いような悪いような。授業の後の事務所での事務もやっていたのですが、そっちは時給800円。最初の話とは違っていたのでそれも理由にしてやめました。われながら根性がないと思います。
それからしばらく静養してました。家にかわいい野良猫が住み着きかわいがって暮らしてました。もう勤めるのは無理かなと思い、自分で細々で良いから商売が出来ないかと考えたりもしました。ドリームゲートのサイトを見て夢を膨らませながら・・・。今考えると無謀な夢を描いていたわけですが、モチベーションだけは高まりました。
で、パソコンにLinuxをインストールしてWebアプリケーションの一種を作り始めました。素人ですからすぐに煮詰まってしまうわけですが、特許の出願をするなどかなり本気でした。
そんななか、かわいがっていた子猫が車にはねられてしまいました。
神も仏もいないと思い、また就職活動を始めました。ほんとうに悲しかったのです。
そして、遺跡の発掘を請け負っている会社に雇ってもらうことになりました。以前の経験が生きると考えたのです。
しかし、待遇は劣悪でした。派遣法の絡みもあり、得意とする測量には手を出させてもらえませんでした。「請負」なので契約以外の仕事は一切してはならなかったのです。さらに意味の無い仕事を割り当てられて、何をやっているのかわからない。撹乱の土色を調べるとか・・・。遺物掘りあててもほったらかしにされるとか。ろくな知識をもたない土木屋の監督が道路工事感覚で仕切っていました。
私は必要とされていない。
半年ほどで辞めることにしました。私の精神の弱さは折り紙つきです。
再度、仕事探しです。
そのとき、ハローワークで「障碍者でも可」という求人を見つけました。
事務の仕事で、時給750円。
このさい給料は少なくてもいいやと半分投げやりだったのですが応募しました。
初めて障碍をオープンにしての就職活動でした。
そこは障碍者の作業所でした。しかも「精神」の。
事情をすべて話しました。
とりあえず試してみましょうとの事でトライアル雇用で働き始めました。
時間も短めで、給料は月に65000円ほどでした。
経理をいままで手作業でやっていたのですが、パソコンを導入したいということで、それならとMySQLとApacheを組み合わせてPHPで経理システムを組みました。試算表も貸借対照表も収支計算書もすぐにだせるやつを作りました。イントラネット組めば同時に複数のユーザーが利用できるというシステムになりました。
しかし、恐ろしい仕様変更が待っていました。
作業所の会計を「NPO本部」と「授産事業」と「営利活動」に区分して処理せよとの基準が作業所の連合会から出されたのです。実態として一本でやっている経理を「後から」3つに分割せよと。日商簿記3級ではたちうちできません。と、いうかこれらの3つに分類されていない伝票を基準もなしに按分せよとの指示が。さらに、将来社会福祉法人化もにらんで資金収支計算書がだせるようにとのこと。これは1取引に2つの仕訳が必要で、システムを根本から直さねばなりませんでした。さらにいままで使用していた勘定科目が全面的に新しいものに置き換えられるということに。しかも、どう置き換えるのか理事長以下だれもわかっていない。
ここはどうやっていたんですか?と聞いても「コンピュータはわかりませんから」でかわされてしまいます。
仕様の定まらないソフトは組めません。暗礁に乗り上げました。
そうこうしているうちに自立支援法が施行されました。
そのころにはもうフルタイムで働いていたため「職業指導員」として事業の本体の役割がのしかかってきました。就労継続支援B型の事業所のピア・スタッフとでもいうのでしょうか…。ケア会議に出席したりもしました、乏しい知識で必死についていきましたが保健所などからいらっしゃるベテランの方々にきつくしかられたりしました。
この事業所、主に通っていらっしゃるのは「精神障害」をお持ちのかたがたなんですが、自立支援法では3障害共通に利用できますので、身体、知的の障害の方も通っておられます。私の主に担当するのはパソコン操作の指導。ということになっていました。
並行して自立支援法の訓練等給付の請求事務もやることに。サービスの代金を市町村に請求するのですが、それには全国で統一されたソフトがあります。・・・それの出来が悪い。ややこしくて涙涙でした。
給与は手取りで11万くらいになりました。精神障碍の障害者雇用としては恵まれているのでしょう。一方、事業所を利用するみなさんは「給与」ではなく「工賃」として最低賃金法の枠から除外されています。時給にして平均250円くらいのレベルです。月に2万円前後が支給されているはずです。
同じ障碍者なのにこの違い・・・自分の中で消化しきれないものがありました。
そして給与を上げてくれとも頼めない。会計の中身を知っているから。
作業をして得た収益から、利用者さんへ工賃を分配するのですが十分では無いわけです。
指導員の給与は利用者さんの利用人数と利用日数で決まってきます。
この現状を打破するために、何もしないでいるわけにもいかず、通信制の大学で精神保健福祉士の取得に挑むことにしました。今まで作業所には一人も精神保健福祉士がいなかったのです。将来、きっと必要になるだろうし、給与面でも考えてくれるかもしれない・・・。
やっぱり自腹です。資格手当ての規定もまだありません。
甘かったです。よその作業所からベテランの精神保健福祉士が流れていらっしゃいました。
資格に賭けていたのですが、その方の例から見て給与もそんなに上がらないことがわかりました。
パイの大きさはあまり変わらない以上、職員が増えれば赤字になります。
事業所の経営状態から言っても私はお荷物にしかならないようでした。
苦労して作った経理システムは、外部から会計事務所の指導を受けることになり、その事務所のソフトに置き換えられてしまいました。
苦労してパソコンを教えたメンバーさんは優秀な方から就労していってしまいます。喜ぶべきことですが。しかし、日々の作業ではパソコンを使えないと業務が進みません。私が残業するなどしてしのいでいました。当然、残業代など出ません。
休日は地域でのお祭りなどがあると、そこへ作業所が出店するということで休日出勤になります。
代休もほとんどとれませんでした。
病状が一気に悪化しました。もう今の事業所は辞めようと思います。
2009年3月31日、精神保健福祉士の試験の合格発表がありました。合格しました。これをこれからどう生かしていくのか考えなくてはなりません。
そして、2009年5月、大阪へ転居しました。福祉的就労の幅の広さを期待してのことです。
就職あっせん機関に出向いたところ、まずは生活を確立させてからの方が良いと言われ、仕事を見つける前に大阪へ来ることになりました。収入のあてもなく一人暮らし。不安でいっぱいです。
医療機関も変わりました。新しい医師になじむにはまだ時間がかかるかも知れません。
もう疲れました。本当に疲れています。
薬物療法の副作用も出ています。不眠傾向もあります。
「次」が見えません。
でも、生きていかねばなりません。
さて、2009年、景気はどん底、これからどうなることやら・・・。
その後、PSW専業で進んでいくことの現実を思い知らされました。
自分の障害がハードルになります。
方向性を少し考えて、日商簿記2級を取得しました。
武器として使えるのか?これからの方向次第です。
さらにプラスアルファを狙いつつ、短時間のアルバイトを探してみようかと思っています。
並行して考えていることがありますが、「精神障害者」への偏見と現実を考え、
ここでは公表しないでおきます。
軌道に乗ったら、いつか、お知らせしたいと想います。
プロフィール更新しなくちゃだな…。
2009年以降嵐のような…。
つうか、もう10年以上たつのか。
色々忙しい日々だったから…。