満足を語る者が見落とすもの――老朽車に乗り続ける住人の寓話

 とある集落に、やけに達観した風を装う住人がいた。彼はしょっちゅう「自分は今の状態でじゅうぶんだ」と力説するが、そのわりには細々とした自慢めいた言葉を絶やさない。曰く、「目立った派手さはないが、長い年月の積み重ねのおかげで今の自分がある」「手放すものがあっても、新たな日常を選べば問題ない」というのだ。確かに一理あるように聞こえるが、周囲はどうも釈然としない気分を抱いている。

 彼はある日、若い親類へ自分が乗っていた古めかしい運搬用の道具を譲った。それ自体は悪い話ではない。誰かの役に立つなら素晴らしいことだろう。ところが、その直後から彼は「自分は別の移動手段に切り替えるから問題ない」と語りだし、周囲を軽くけん制するような笑みを浮かべる。新しい環境でもしっかりやっていく自信がある、というアピールらしい。

 しかも、その移動手段とやらも相当古びているらしく、修理のたびに金がかかっている様子が透けて見える。ところが「いやあ、古いとはいえ、やはり力強さが違う」と言わんばかりに嬉々として語り、「むしろこれに乗ると爽快感が倍増する」と自慢じみた口調をやめないのだ。周囲からすれば「それならなぜわざわざ譲る話をして、改めて何かを誇るのか?」と疑問に感じるが、彼はお構いなし。どうやら他人の評価はさほど気にしていない――少なくとも、自分ではそう思っているようだ。

 さらに彼は、「かつて世話になった教師の言葉として、他人の領域がよく見えても実は自分の暮らしのほうが優れているかもしれない」といった主張をしきりに持ち出す。確かに、人は他者を羨む一方で、自らの環境に満足している面もあるだろう。しかし彼の場合、それが「自分は他者よりも先を行っているから不満などない」と結論づけるための材料にすぎないらしく、しばしば会話の中で「だから君たちは苦労が多いんじゃないか?」と暗に見下すような口調にすり替えてしまうのだ。

 こうした言動を目にする限り、真の意味で落ち着いているとも、周りに対して配慮しているとも言いがたい。むしろ、「我慢や努力を積み重ねてきたから今の自分がある」という理屈を振りかざしながら、実のところ内心では自慢の種を手放そうとしない――そんな印象を与えてしまっている。

 そもそも、地道に積み重ねた結果を誇示するのは悪くないとして、ならばわざわざ誰かを引き合いに出したり、「あれほどではないけれど、これでじゅうぶん」と他者をちらりと下に見るような態度をとったりする必要があるのだろうか。黙々と頑張る人は、わざわざ周囲に向かって「俺は我慢してきたんだ」と吹聴するより、日々の姿勢で示すものだ。

 また、彼は「今の自分がある」と言葉にしながら、その実態はどうなのか。譲り渡したものの後に残ったのは、使い込まれてガタがきている乗り物であり、適宜修理に費用を投じなければ動作が危うい。それ自体は誰しも経験する苦労だろうが、そうした現状を話題にするたび、彼は「むしろ不便さが楽しいんだ」と豪語する。ならば黙って楽しめばいいものを、「こんな苦労こそ本当の醍醐味なんだよ」と謎の優越感を漂わせるので、周囲はますます白けてしまうのだ。

 傍観者から見れば、彼が積み重ねているのは「本当に満足している」という姿勢ではなく、「自分は苦労しているから偉い」という自己陶酔に近い。さらには、「自分のほうが他人より状況をわきまえているのだから、これ以上何も学ぶことはない」とでも言いたげな雰囲気があり、まるで成長を拒んでいるかのようにも映る。

 もちろん、人がどんな手段で暮らしを立て、どんな乗り物に乗ろうと、それは個人の自由だ。日々の営みを自分なりに楽しむのも否定されるべきではない。だが、もし本当に「足るを知る」境地にいるのなら、それを声高に言いふらさなくても、自然に周囲へ伝わるはずではないだろうか。現実には、その話題に触れるたび、自慢か皮肉かよく分からない表情を浮かべ、誰かの生活をうっすら否定する。そうした場面を積み重ねれば、逆に「本当に納得しているのか?」と怪しまれても仕方あるまい。

 小さな集落では、彼の動向はちょっとした噂の種になっている。「毎回いろいろ言うけど、実際は周りを批判したいだけなんじゃないか」「本当は隣人を羨んでいるけど、負けを認めたくないだけでは?」――そんな声さえ飛び交う。しかし、彼自身は気づいているのかいないのか、昔ながらの乗り物に乗って颯爽と出かけては、帰ってきて「いやあ、やっぱりこういうのが性に合う」と誇らしげに語るばかりだ。

 もし、本当に「手に入れたものに満足する」生き方を目指すなら、自分以外を小馬鹿にする発言や、二言目には過去の努力を振りかざす態度は、むしろ逆効果だろう。謙虚さを装っていても、その根底に「他人と比較して自分は優秀だ」という思いが隠れていれば、それはにじみ出てしまうものだ。

 結局、彼の言葉は「独自の満足感」を全面に出すわりに、見栄や競争心がそこかしこに透けて見える。口先だけで穏やかに聞こえる文句を並べても、行動や物腰がついていかない限り、真の説得力は生まれない。「満足を知る」姿勢と、「誰かを見下す」行為は同居しにくいからだ。

 この先、もし彼が外面的な言葉に頼らず、さりげなく努力を積み重ねる姿を示せば、周囲は自然と「なるほど、あれが真の充実なのだろう」と感心するに違いない。しかし今の段階では、慎ましさを口にしながら自慢を忘れず、達観を気取っては他者を軽くあしらう、その矛盾は拭えないままだ。

 真に「いま持っているものを大切にする」境地は、案外、黙々と裏方で努力する人が知っているものかもしれない。多くを語らずとも周りが「彼は満ち足りているな」と感じる、その静かな光こそが説得力を帯びる。自分のすばらしさを言い募らずとも、結果は行動と生き様で示せばよいのだから。

 果たして彼はこのまま、矛盾めいた発言を繰り返しながら周りを煙に巻き続けるのか。それとも、ある日ふと我に返って、言葉だけの“達観”から抜け出すのか。小さな集落の人々は今日も、遠巻きに彼を見守りながら、密かに思うのだ――本当の満たされた暮らしとは、自慢話よりもずっと穏やかで、周囲に気遣いを見せられるものではないだろうか、と。

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