病気でいろいろ悔しい思いをする。
不動産屋でもしたし、保険屋にもあからさまに言われたし。
で、悔しい思いをしたことを人に話すと、
「誰でもみんな悔しい思いはするよ」とくる。
健常者からも病者からも。
自分のほうがよっぽど悔しい思いをしているとばかりに。
この悔しさは友人でもわからない。そう思うと悔しさは倍になる。
解れというほうが無理なのかもしれないが。所詮他人事である。
個別性の裏返しである。
病院の医師も解ってるような解ってないような受け答えをするよう訓練されているし、
ソーシャルワーカーは全てを傾聴するという原則に基づき、話だけは聞く。
が、その「聞くだけ」で終わってしまい、理解しているかどうかははなはだあやしい。
聞いた後はクライエントの支援をする。クライエントの希望に添って。理解なくとも。
で、考えるに、悔しさは他人に分かってもらうためのものではないのだ。
悔しい目にあったという感情を昇華させねばなるまい。
悔しいという感情を怒りにまで持っていかなければ。そして、何かにぶつける。
・・・だが、自覚的に怒りを発生させるパワーがもうのこっていないのに気付く。
さらに、自分の中で怒りを発生させる部分がかなり麻痺しているのにも気付く。
被害妄想を抑制させるために適応したのだろうかと思う。
いわゆる「ヘタレ」であるのだが、怒りの感情は常に発生している。はず。
自覚的に潰しているものも多い。小さいうちに芽が摘まれているのだ。
なあなあでいいのか?
どこかで流れを変えてやりたいものだ。
さて、何ができるか?考えないと。
これだから頭をOFFにできないのだ。
共感します。私も同じような気持ちというか経験をたくさんしているからです。
よくこう言われる。「エルは苦労しないで育ってきた」とか「あなたより不幸な人間は世の中にたくさんいるんだよ」とか。あまり深く考えてもらえずにとりあえず否定されるといつも腹が立ちます。
>エル さん
共感ありがとうございます。
Lオケ読んでるとそこかしこにそういった思いがちりばめられていると感じます。
エルさんにあの膨大なLオケを書かせる原動力の一部なのだろうなと思います。
「上を見ても下を見てもきりがない」とよく言われます。
だったらなんだよ・・・と言いたくなったりします。
QOLってのはいったいなんだろうと考えたりします。
どうもその暮らしている社会の平均がからんでくるらしいのですが・・・。
「そんなこと言うなら外国行って極貧生活してこい」とかという話になってしまうので、現実に地に足のついた幸せがどこかにないかなあと思います。
そのへんに簡単に落ちてるものではないのでしょうが。