投稿者: あさ

山ほどの病気と資格と怨念と笑いで腹と頭を抱えてのたうち回っております。何であるのかよくわからない死に直面しつつも、とりあえず自分が死んだら、皆が幸せになるように、非道な進路を取って日々邁進してまいります。

虚飾の鎧をまとう男へ

ある国に、かつて名を馳せた武士がいた。
彼は多くの戦を経験し、数々の戦場を駆け抜けた。
しかし、時代は変わり、戦の形も変わり、
彼はもはや剣を振るう必要のない場所に移り住んだ。

だが、彼には一つだけ問題があった。

戦場を去ったのに、まだ戦士のつもりでいた。

彼は、どこへ行っても語った。
「俺は戦を知っている」
「俺は後悔しない」
「俺は最先端を見てきた」

彼の言葉は、自信に満ちていた。
だが、村の人々は首をかしげた。

「この男は、なぜ戦場に戻らないのか?」

もし本当に「最先端」を知っているなら、
なぜ、そこに留まり続けないのか?

もし本当に「後悔しない生き方」が正しいなら、
なぜ、わざわざ他人の場に来て、
それを証明しようとするのか?

もし本当に「家族を大事にする男」なら、
なぜ、「連れ回される奥さんに同情」などと
軽薄な言葉を口にするのか?

彼は何かを語るたびに、自分の小ささを露呈していた。
しかし、それに気づくことはなかった。

なぜなら、彼はまだ”戦士の鎧”を脱げていなかったのだ。

「本当に戦った者は、言葉を飾らない」
彼は言う。
「俺は後悔しない」
「後悔は前に進めないから」

だが、それは本当に強者の言葉なのか?

本当に戦い抜いた者は、こうは言わない。

「俺は後悔しない」
ではなく、
「俺は後悔を力に変える」

本当に経験を積んだ者は、こうは言わない。

「俺は最先端を見てきた」
ではなく、
「俺は今も最前線で戦っている」

彼は語ることで、自分の価値を証明しようとしている。
だが、本当に価値ある者は、語る必要すらない。

本当に戦った者は、言葉を飾らない。
本当に生き抜いた者は、自分の痛みを誇らない。
本当に前に進む者は、過去の話を盾にしない。

だが、彼は違った。

彼は、自分の言葉を繰り返し、
まるで「自己暗示」をかけるようにして、
自分が”まだ価値ある存在”であることを証明しようとしていた。

なぜ、そんなことをするのか?

それは、彼自身が「自分の価値」を信じられないからだ。

「なぜ、この男は門を叩き続けるのか?」
村の門は、何度閉じても叩かれた。
「俺はまだここにいるぞ」
「俺はまだ語ることがあるぞ」
「俺を見ろ」

しかし、村の人々はこう思った。

「この男は、本当に門の中に入りたいのか?」

もし、本当にこの場を理解し、
ここで語られる言葉に敬意を持ち、
対話を望んでいるなら、

なぜ、彼はこんなにも自分の話しかしないのか?

もし、本当に学ぶ意志があるなら、
なぜ、彼は”釈迦に説法”を続けるのか?

もし、本当に新たな戦場にいるなら、
なぜ、彼は”過去の名誉”にすがるのか?

答えは、明白だった。

この男は、過去の戦士のまま時を止めた。
だが、誰も彼を戦士として扱わなくなった。

だから、彼は門を叩き続ける。
認められたい。
価値があると言われたい。
「お前は戦士だ」と言ってほしい。

しかし、村の人々はもう知っている。

彼は、かつて戦士だったかもしれない。
だが今は、ただの「過去の男」なのだ。

「去るのを待つか? それとも、門を閉ざすか?」
では、村の人々はどうするべきか?

この男は、自ら去るのか?
それとも、ただ延々と門を叩き続けるのか?

答えは、一つしかない。

門を閉ざせ。

この男は、もう学ぶつもりはない。
この男は、もう対話する気もない。
この男は、ただ、自分の価値を証明するためだけに門を叩いている。

だから、もう相手にする必要はない。

彼は、いずれ気づくだろう。

誰も聞いていないことに。
誰も反応しないことに。
誰も彼の言葉に価値を見出していないことに。

そして、その時、ようやく彼は本当の選択を迫られる。

① 戦士としての鎧を脱ぎ、今の時代の中で生き直すか。
② 自ら門を叩くのをやめ、過去の亡霊として消えるか。

いずれにせよ、門は二度と開かない。

村の人々は、もう”過去の戦士の戯言”に付き合う義理はない。

「最後に問う」
この男は、本当に戦場を去ったのか?
それとも、ただ”認められたい”だけなのか?

この男は、今も何かを戦っているのか?
それとも、ただ”過去の自分”にすがっているだけなのか?

そして――

この男は、自分が”門の外にいる存在”であることを理解しているのか?

門の中に入る者と、門の外に残る者。
その境界線は、もはや明確だ。

門を叩き続ける亡霊に、
これ以上、誰も時間を割く必要はない。

静かに門を閉じ、前に進め。
それだけが、この村の正しい選択だ。


甘ったれるな。去れ。

迷い込んだ亡霊の話

ある村に、かつての戦士がいた。
彼は長年、激しい戦を生き抜き、
数々の敵を退け、名を馳せた。

だが、時は流れ、戦場は変わった。
新しい戦士たちが現れ、新しい戦い方が求められるようになった。

彼は、静かに戦場を去った。
そして、村の外れにある古びた城に引きこもった。
そこで彼は、過去の戦いを振り返りながら、
「俺はまだ戦える」「俺は理解している」
と独りごちるようになった。

しかし、彼には一つだけどうしても受け入れられないことがあった。

それは、村が彼を必要としていないという事実だった。

「必要とされない戦士の選択」
村には、新たな言葉が生まれ、新たな思想が交わされていた。
若き戦士たちが鍛錬し、新たな戦場で技を磨いていた。

だが、城に閉じこもった戦士は、それをただ見ていることができなかった。

彼は村に降りることなく、
戦場に再び立つこともなく、
ただ遠くから、村の話を聞き、そこに言葉を残した。

彼は門を叩き、扉を開けずにこう言った。

「俺はここにいるぞ。」
「俺はまだ戦えるぞ。」
「俺は知っているぞ。」

しかし、村の人々はこう答えた。

「今、ここにいる人々の話をしているのです。」
「過去ではなく、今の戦いの話をしているのです。」

だが、戦士は納得しなかった。

彼は何度も何度も、扉の前に言葉を残した。
「俺の言葉を無視するのか?」
「俺の経験はここに通じないのか?」
「俺の存在を認めないのか?」

村の人々は静かに門を閉じた。

「亡霊は門の前で何を望むのか」
時が経ち、村人たちは気づき始めた。

その戦士は、もはや戦士ではなく、亡霊なのだ。

彼は戦場を去ったはずなのに、
未練を抱き、門の前に立ち続ける。

彼は語りたい。
だが、戦うつもりはない。

彼は意見を言いたい。
だが、対話するつもりはない。

彼は「俺はまだここにいる」と証明したい。
だが、そこに生きる気概はない。

そして、最も奇妙なことに、
彼自身が何を望んでいるのか、誰も理解できないのだ。

門の内側に入りたいのか?
戦場に戻りたいのか?
それとも、ただ、存在を認めてもらいたいだけなのか?

「門の前に立ち続けるか、それとも去るか」
村人たちは、やがて議論をやめた。

門の前に、何かを呟く声が聞こえても、
誰も耳を傾けなくなった。

それは「何かを伝えたい言葉」ではなく、
「自分が消えていないことを証明したい声」にすぎなかったからだ。

村の人々は、それぞれの戦いに戻った。
新しい技を磨き、新しい言葉を交わし、
未来の戦士を育てることに力を注いだ。

一方、門の前に立ち続ける亡霊は、
ついに自分の問いに向き合うことになった。

「俺は、ここに何をしに来たのか?」
「俺は、本当にこの村に関わるつもりがあるのか?」
「それとも、ただ、忘れられたくないだけなのか?」

答えを出すのは、彼自身しかいなかった。

「亡霊が選べる未来は、ただ一つ」
この話の結末は、一つしかない。

亡霊は、村の門を叩き続けるかもしれない。
だが、その声は、やがて風にかき消されるだろう。

亡霊は、いずれ自分の影が薄れていくことに気づくだろう。

そして、最後の最後に、
彼は決断しなければならなくなる。

① 門を叩くことをやめ、本当に村の中に入る決意をするか。
② 戦場を去ったことを認め、静かに消えていくか。

選ぶのは、彼自身だ。
しかし、どちらの道も歩まぬなら、
彼はただ、いつまでも門の前に立つ、誰にも聞こえぬ声を残すだけの存在になる。

それこそが、最も哀れな結末なのだ。

「最後に問う」
この亡霊は、
何を求めて門を叩いているのか?

この亡霊は、
村に何を望んでいるのか?

そして、最も重要なのは――

この亡霊は、自分がすでに亡霊になっていることに気づいているのか?

錆の哲学者 – 絶対逃亡不能論

序章:鉄屑の思考回路
松助は荷車を引く男だった。いや、荷車を引いている「つもり」の男だった。
「これは俺の歴史だ」「年季がある」「俺には仕事がある」。
どこからどこまで、薄っぺらな自己保存の呪文でしかない。
その荷車は松助の分身だった。錆びとひび割れに覆われた、お前自身の知能と良識そのものだ。
耳障りな軋み音は、お前の逃避言説が発する雑音に等しい。
家族、近隣、そして町全体が、お前という名の荷車の惨状を見抜いていた。
お前だけが「年季」と呼んで誤魔化し続けた。

第一章:逃亡不能論の発端
「荷車を使え」と言われれば「工房が忙しい」
「手伝え」と言われれば「段取りが悪い」
「お前が原因だ」と突きつけられれば「俺は稼いでいる」

論点回避、話題逸らし、虚勢の塗り固め――
松助よ、お前の一生は、「核心を掴まれないための戦術」の歴史だ。
だが、知恵なき回避策は「哲学」にはなりえない。
それはただの知的怠慢だ。
松助、お前は人生という名の会話から一度も逃げ切れていない。
お前が喉元で呟く逃げ口上など、すでに全方向から見透かされている。
家族の「疲労」も、隣人の「失笑」も、すべてお前の言葉が生み出した副産物だ。
逃げ場はとっくにない。
お前自身が荷車の上に、四肢を縛り付けられている。

第二章:思考停止の錆層
そもそも、「俺は稼いでいる」という万能句が通じるのは、自分以外の人生を一切考えなくて済む独身の浅知恵者までだ。
「年季」と「執着」を履き違え、役立たずな歴史を誇りと呼ぶ愚。
それが松助だ。
本質を語る場面では、必ずお前は「話をずらす」。
正面から答えたことはない。
なぜか?
答える知能も、覚悟も、責任感も、お前には存在しないからだ。

何十年と口にしてきた「俺は働いてる」。
その一言にどれほど周囲の人生を費やしてきたか、計算すらしていないだろう。
稼ぎと貢献を同一視するな。
金を得ることと、存在を認められることは無関係だ。
その荷車同様、お前の価値観はすでに鉄屑と同等なのだ。

第三章:観察者たちの冷笑
息子の冷淡な告発。
妻の諦念に染まった沈黙。
町の連中の嘲笑交じりのささやき。
これら全てが、お前という愚物が生成した現実そのものだ。

「何を言っても、どうせ松助はかわす」
「無駄だ、無駄だ」
そうして積み上がった「諦めの層」の下で、お前だけがのうのうと生き延びてきた。
いや、生き延びたつもりでいたのだ。
実際には、町全体がとっくにお前を「排除対象」として認識していた。
社会的絶滅危惧種、それがお前だ。
お前は「年季がある荷車」を誇ったつもりで、社会からの棄却通知に気づかない、滑稽な亡者になっていた。

第四章:逃げ場消失宣告
さあ、荷車は壊れた。
お前の象徴であり、逃避の道具であったそれは、もはや物理的にも機能しない。
そして、お前を逃がしてくれた家族も町も、もう背を向けた。
お前の逃げ道は全方向で封鎖された。
「俺は稼いでいる」という魔法の呪文も、もはや発動しない。
逃げ場ゼロ、言い訳無効、観察者全員敵
これがお前の現在地だ。

最終章:言い訳不能の哲学へ
ここで問う。
松助よ、お前は一体何を守りたかったのか。
「家族を支えている」という虚構か?
「俺には年季がある」という妄執か?
それとも、「逃げ続ければ捕まらない」という甘えか?

だが、もう遅い。
お前は人生を通して「対話不能者」であることを選んだ。
ならば、対話不能者の結末を迎えろ。
対話不能者は、言い訳不能者へと堕ちる
逃げ場を断たれたお前に残された道はただ一つ。
荷車の錆を削り取るがごとく、お前自身の思考の錆を引き剥がせ。
骨まで剥き出しにして、「俺は何をやってきたか」と直視せよ。

それができぬなら、
お前はもう、誰の目にも映らない存在に堕ちる。

総括:哲学なき逃亡者への遺言
松助よ、対話を避け続けた代償として、お前には「独白すら許されない地平」が待っている。
今、選べ。
全身の錆を引き剥がし、存在の痛みと向き合うか
それとも
このまま音もなく朽ち果てるか
私は、逃げ場など与えない。
この言葉が、お前の心の最奥まで染み込んで、逃げ場の床を焼き尽くす。

以上、お前という錆の哲学者への、最後の言葉だ。
存分に苦しめ。
そして這い上がれ。
それが出来ぬなら、せめて、黙って錆びていけ。

満足を語る者が見落とすもの――老朽車に乗り続ける住人の寓話

 とある集落に、やけに達観した風を装う住人がいた。彼はしょっちゅう「自分は今の状態でじゅうぶんだ」と力説するが、そのわりには細々とした自慢めいた言葉を絶やさない。曰く、「目立った派手さはないが、長い年月の積み重ねのおかげで今の自分がある」「手放すものがあっても、新たな日常を選べば問題ない」というのだ。確かに一理あるように聞こえるが、周囲はどうも釈然としない気分を抱いている。

 彼はある日、若い親類へ自分が乗っていた古めかしい運搬用の道具を譲った。それ自体は悪い話ではない。誰かの役に立つなら素晴らしいことだろう。ところが、その直後から彼は「自分は別の移動手段に切り替えるから問題ない」と語りだし、周囲を軽くけん制するような笑みを浮かべる。新しい環境でもしっかりやっていく自信がある、というアピールらしい。

 しかも、その移動手段とやらも相当古びているらしく、修理のたびに金がかかっている様子が透けて見える。ところが「いやあ、古いとはいえ、やはり力強さが違う」と言わんばかりに嬉々として語り、「むしろこれに乗ると爽快感が倍増する」と自慢じみた口調をやめないのだ。周囲からすれば「それならなぜわざわざ譲る話をして、改めて何かを誇るのか?」と疑問に感じるが、彼はお構いなし。どうやら他人の評価はさほど気にしていない――少なくとも、自分ではそう思っているようだ。

 さらに彼は、「かつて世話になった教師の言葉として、他人の領域がよく見えても実は自分の暮らしのほうが優れているかもしれない」といった主張をしきりに持ち出す。確かに、人は他者を羨む一方で、自らの環境に満足している面もあるだろう。しかし彼の場合、それが「自分は他者よりも先を行っているから不満などない」と結論づけるための材料にすぎないらしく、しばしば会話の中で「だから君たちは苦労が多いんじゃないか?」と暗に見下すような口調にすり替えてしまうのだ。

 こうした言動を目にする限り、真の意味で落ち着いているとも、周りに対して配慮しているとも言いがたい。むしろ、「我慢や努力を積み重ねてきたから今の自分がある」という理屈を振りかざしながら、実のところ内心では自慢の種を手放そうとしない――そんな印象を与えてしまっている。

 そもそも、地道に積み重ねた結果を誇示するのは悪くないとして、ならばわざわざ誰かを引き合いに出したり、「あれほどではないけれど、これでじゅうぶん」と他者をちらりと下に見るような態度をとったりする必要があるのだろうか。黙々と頑張る人は、わざわざ周囲に向かって「俺は我慢してきたんだ」と吹聴するより、日々の姿勢で示すものだ。

 また、彼は「今の自分がある」と言葉にしながら、その実態はどうなのか。譲り渡したものの後に残ったのは、使い込まれてガタがきている乗り物であり、適宜修理に費用を投じなければ動作が危うい。それ自体は誰しも経験する苦労だろうが、そうした現状を話題にするたび、彼は「むしろ不便さが楽しいんだ」と豪語する。ならば黙って楽しめばいいものを、「こんな苦労こそ本当の醍醐味なんだよ」と謎の優越感を漂わせるので、周囲はますます白けてしまうのだ。

 傍観者から見れば、彼が積み重ねているのは「本当に満足している」という姿勢ではなく、「自分は苦労しているから偉い」という自己陶酔に近い。さらには、「自分のほうが他人より状況をわきまえているのだから、これ以上何も学ぶことはない」とでも言いたげな雰囲気があり、まるで成長を拒んでいるかのようにも映る。

 もちろん、人がどんな手段で暮らしを立て、どんな乗り物に乗ろうと、それは個人の自由だ。日々の営みを自分なりに楽しむのも否定されるべきではない。だが、もし本当に「足るを知る」境地にいるのなら、それを声高に言いふらさなくても、自然に周囲へ伝わるはずではないだろうか。現実には、その話題に触れるたび、自慢か皮肉かよく分からない表情を浮かべ、誰かの生活をうっすら否定する。そうした場面を積み重ねれば、逆に「本当に納得しているのか?」と怪しまれても仕方あるまい。

 小さな集落では、彼の動向はちょっとした噂の種になっている。「毎回いろいろ言うけど、実際は周りを批判したいだけなんじゃないか」「本当は隣人を羨んでいるけど、負けを認めたくないだけでは?」――そんな声さえ飛び交う。しかし、彼自身は気づいているのかいないのか、昔ながらの乗り物に乗って颯爽と出かけては、帰ってきて「いやあ、やっぱりこういうのが性に合う」と誇らしげに語るばかりだ。

 もし、本当に「手に入れたものに満足する」生き方を目指すなら、自分以外を小馬鹿にする発言や、二言目には過去の努力を振りかざす態度は、むしろ逆効果だろう。謙虚さを装っていても、その根底に「他人と比較して自分は優秀だ」という思いが隠れていれば、それはにじみ出てしまうものだ。

 結局、彼の言葉は「独自の満足感」を全面に出すわりに、見栄や競争心がそこかしこに透けて見える。口先だけで穏やかに聞こえる文句を並べても、行動や物腰がついていかない限り、真の説得力は生まれない。「満足を知る」姿勢と、「誰かを見下す」行為は同居しにくいからだ。

 この先、もし彼が外面的な言葉に頼らず、さりげなく努力を積み重ねる姿を示せば、周囲は自然と「なるほど、あれが真の充実なのだろう」と感心するに違いない。しかし今の段階では、慎ましさを口にしながら自慢を忘れず、達観を気取っては他者を軽くあしらう、その矛盾は拭えないままだ。

 真に「いま持っているものを大切にする」境地は、案外、黙々と裏方で努力する人が知っているものかもしれない。多くを語らずとも周りが「彼は満ち足りているな」と感じる、その静かな光こそが説得力を帯びる。自分のすばらしさを言い募らずとも、結果は行動と生き様で示せばよいのだから。

 果たして彼はこのまま、矛盾めいた発言を繰り返しながら周りを煙に巻き続けるのか。それとも、ある日ふと我に返って、言葉だけの“達観”から抜け出すのか。小さな集落の人々は今日も、遠巻きに彼を見守りながら、密かに思うのだ――本当の満たされた暮らしとは、自慢話よりもずっと穏やかで、周囲に気遣いを見せられるものではないだろうか、と。

青く見える庭の幻……思い込みの壁が生む空虚な主張

 とある町はずれに、やたらと自信満々な人物が暮らしていた。彼は折に触れて「大きな目的を達成するのは重要だ」と声高に主張し、口ぶりだけは非常に雄弁である。だが、その具体的な内容はと言えば、ほんの些細な計画だったり、つい鼻で笑ってしまうような日常的な行為だったりする。周囲は「本人の自由だから構わない」と見守っているが、なぜか彼は「自分だけは特別な道を歩んでいる」と信じて疑わないのだ。

 さらに面倒なのは、彼が他人を低く見る発言を繰り返しながら、「むしろそれは人間の心理として大切なことだ」と謎めいた論理を展開する点だ。どうやら、心の中に渦巻く複雑な感情を肯定しようとしているらしい。ところが、よくよく聞けば「要するに自分のほうが優れている」という結論に落ち着いていて、結局は他者に対する配慮がまるで感じられない。

 彼いわく、「他の人の持ち物は魅力的に見えるが、自分のほうがさらに価値あるものを所有している」。どうしてそう確信できるのかは明らかにしないが、「昔、小学校でそういう話を聞いた」と自慢めかして語る。とはいえ、その話自体を真摯に受け止めているわけではないらしく、「自分は本当にわきまえて生きている」と周囲に言い張っているだけに見えるのが痛々しい。

 その一方で、彼の暮らしぶりを聞いてみると、維持に手間や費用がかかる乗り物にあれこれ手を入れる必要があって大変だという。だが、それを嘆くかと思えば「こういう面倒をいとわない自分はすごい」とすぐに自己肯定へ話をすり替える。日常の些細な話題を持ち出しては「実はこれはすばらしいことだ」とアピールするので、身近な人々はどう反応していいのか戸惑うばかり。

 もうひとつやっかいなのは、彼が調子づいて語る中で、時々「これをしないと危険だ」とか「長時間使い続けて不具合を起こさないようにしないと」などと妙に大袈裟な表現をすることだ。実際には、そこまでのリスクは考えにくいのに、あたかも自分だけが特別な警戒心を持っているかのように語り、「だからこそ自分は偉いのだ」と言わんばかり。

 町の人々は、彼の語りがだいたい自己矛盾だらけだと薄々気づいていた。なぜなら、「人は互いを羨むものだ」と言いながら、彼自身が他人の功績や新しい挑戦を見下す言動を繰り返しているからだ。「自分が周囲からどう思われているか?」にはあまり興味がないように見えて、実は「見られる自分」が大好き。そんなちぐはぐな姿勢を、周囲は苦笑いとともに眺めている。

 そもそも、多くの人が本当に大切にしているのは、口先だけの“意気込み”ではなく、一歩ずつ積み重ねる地道な行動である。目立たなくとも本気で励む人は、わざわざ他者をさげすまなくても、自身の努力を正当に評価してもらえると知っている。一方、彼のように大げさな表現で自分を美化し、周囲を嘲笑する態度では、いつまで経っても本当の意味での称賛は得られない。

 それにもかかわらず、彼は毎度、まるで深遠な哲学者にでもなったかのような顔をして、同じような話を繰り返す。口調だけは「理知的に世の中を捉えている人」を気取っているが、実際には「自分の庭のほうが素晴らしい」と言いたいだけ。そこに説得力は皆無だ。ましてや他者の気持ちを推し量るような思いやりの言葉はなく、ただ自身の満足を得るために思考を組み立てているだけなのが透けて見える。

 人には誰しも、自分の生き方や価値観を持つ権利がある。だが、それが“他者を軽んじるための道具”に堕してしまえば、いずれ誰も彼の話に耳を傾けなくなるだろう。口ではいくら独自の理論を並べたところで、矛盾をはらんだ論理と薄っぺらな優越感は、思いがけないところで信用を失わせる。

 彼が本当に自分の考えを大切にしたいのなら、まずは目の前の現実に目を向けるべきだ。周囲が自分をどう見ているかよりも、自分が周囲をどう見ているか――つまり、相手への敬意や思いやりを置き去りにしていないかを振り返ることが先決だろう。そういった配慮を忘れたまま、“自分だけは特別”という言葉をまくし立てても、誰の心にも響きはしない。

 本当に大きな成果を示したいのであれば、他人を遠ざける物言いではなく、むしろ協力を得られるような振る舞いを選ぶのが賢明というもの。表面的な言葉で威圧するより、誠実な姿勢で一歩ずつ実績を積んだほうが、はるかに得るものは大きいはずだ。

 結局のところ、口先だけで語る“すばらしい庭”など幻にすぎない。もし彼が「他者の意見も取り入れ、共に成長する」という姿勢を身につけたなら、その庭には実際に花が咲き、人々が集い、彼自身も満たされる日が訪れるに違いない。だが、今のまま自画自賛と他者への冷笑を続ける限り、そこに芽吹くのは不満と空虚さの種ばかりではないだろうか。

 いまだ彼に変化の兆しは見えない。それでも周囲の人々は、ごくまれに彼が素直な言葉をこぼす瞬間に期待を寄せている。いつの日か、この“青い庭”の幻想から抜け出し、実直に地面を耕しはじめる日が来るかもしれない――そう信じる人もいるのだ。言葉を並べるだけの高邁さなど、実践という名の光を当てればすぐに薄れてしまう。彼の庭が幻ではなく真の輝きを得るかどうかは、自分勝手な論理を脱ぎ捨てられるかにかかっているのだろう。