カテゴリー: やんやん

家庭サービスで火傷

午前11時から午後5時頃まで外出。

つうか、炎天下、屋外にいたために、日焼けでひどいことになっています。

もう火傷状態。今後皮が剥けたり水ぶくれが起きたりすることでしょう。

もう、痛いのなんの…。

そうそう、某会の役員降りました。もう責任とれん。

これで、あとはチラシいくつか片付けて入院体勢に入ります。
入院中も進行する仕事はありますが…。

しかし、7月末の太陽の直射を受けてしまい…。
多分長袖だと熱がこもって熱中症方向へ行ってたかも。

こどもとやんやんは平気。

自分の処方が光線に過敏になる薬の内容かもしれないことはありますが。

と言うことで、真っ赤っかのタコ状態の私でした。

日朝戦争

毎日、毎朝、子どもと戦争です。

なかなか起きやがらないし、飯食わないし、薬飲まないし、着替えしないし…。
泣きわめきながら抵抗します。

ぎりぎりまで動かない。
保育園に遅れる!!
仕事に差し支えるだろうが!!

赤ちゃん返りでやんやんにべったり。
俺の言うこと聞かない。

都合のいい時だけ寄ってきて命令するくせに…。

たまらんわい。
これで保育園では良い子の部類に入るってんだから、
問題児はどんなことになっているのやら。

たまに保育園でブチ切れてる親を見かけるが…。

自我の芽生えなのか、わがままなのか、甘えなのか。

今朝ももう疲れ果てましたわ。

風邪ひいた。喉痛い。最近風邪ひきやすくなってる…。

鼻から喉にかけて痛い。
鼻水も。

疲れるとすぐ風邪をひくようになりました。
つうか、子供が風邪を持ってくるのだろうな。
やんやんも頭痛にやられてた。

さて、午前中に病院へ・・・と思ったけれど、
用事で家を空けるわけにもいかない。

しかもスーテント服用中で輪をかけて調子下降中。

耐えるしかないか。

朝6時から仕事開始してるんだが、今日は一日長くなりそうだ。

チラシを修正と、客とのやり取り。
クライアントともやり取り。
サイト調整。
いろいろ段取り。

子供のお見送り。
今から洗濯。

昨日の懇談は4時間にも及び、勤め人のがん患者の苦悩を聞いてきました。
昔の職と近い職業の方だったので突っ込んだ話に。
しかし、手術と化学療法で3ヶ月ほどでがんを叩いたというのには驚いた。
がんの種類によってはそういうのもあるんだな。

皆頑張ってる。

子供も保育園で頑張ってる。
やんやんも超忙しく頑張ってる。
俺も頑張る。

と言いつつ、RASPBIANダウンロードした余波でネットに速度制限かかっちまってる模様。
そりゃ1.3ギガのファイル落とせば…。と思いつつ、
こりゃ仕事やりにくいぞ・・・と、困惑中。

さて、次の作業は・・・と。

訃報で悲しめない自分。を悲しく思わない自分。

他人事となると、人が死んでもなんとも思わないという現実。

でも、お悔やみに出かける。
打算的なのか、社会に適応してるのか、何なのか。

死は大きなことだけど、しょせん理解できないから、そうなるのだろうな。

不謹慎だとかそうでないとかいう話でもなく、流されていく自分。

心底、共感できていない事実。

葬儀に出席する人間、通夜に出てくる人間がどのくらい悲しんでいるのだろうか。
悲しい人もいるのだろうし悲しむ人を助ける必要もあるのだろうとアタマでわかろうとしても…。

なんか儀礼的なものに出て行く意味を見失っている。
しかし、出ていかなければ社会的に抹殺されかねない、という恐れ。
そんな人間が集まって意味あるのかなと思うんだけれども、
深く考えてもしょうがないので、
訃報を送ってきたということは来て欲しいということなのだろうと解釈。

自分にとって意味がなくても、相手、身内に死者が出たものにとって意味があるのだと。

と解するが、納得しきれないものが残る。

死というものは、自分に必ず訪れるものではあるけれど、自分の体験する死はすべて他人の死であるのだ。
悲しいのは、亡くなったことではなく、亡くなることによって周りが喪失することから生じるのだなと。

会ったことない、あるいはその人の亡くなることで自分が失うもののない人間の死で悲しみは生じない。と思われる。
悲しいのは関係の喪失によるのかなと。

だから、自殺未遂して周りを困惑させる人間は、その辺を意識的にか無意識的にか計算しているのだろうな。
リストカットもオーバードーズも、人との関係において意味がある行為ということで、
こういうのをやる人間は「生きるために」やるとよく言うけれど、関係を確かめる方法としては確実かつ効果的だけど、
「ほんとうの」人間関係を破壊するものであることを分かっていないのだろうなとの想いに至る。
一種の暴力であるということも言えるだろう。関係者に対する。

だから、そういうことをする人とは積極的に関係を断ち切る。でないとこっちのヒューズが飛ぶ。
ヒューズが焼き切れる前に、ヒューズのつながっている回路を外しておくわけだな。
自分の他人に対する感情が鈍麻してしまわないように。

今回亡くなった方の死因等は一切わからない。
そのくらいの関係ではある。

訃報を送ってきた方と自分の関係は、微妙な関係なのであるが、
仕事上の付き合いということで無下には出来ない。

悲しんでいる方を見舞うという意味で行くことになるわけだが、
本心、その方が悲しんでも…自分にとってどういう関係があるかというと、まったくもって功利的な理由で見舞うとしか言いようが無い。

亡くなった方を弔う場にそんな感じで出かけていくのは違和感がある。
でも、顔を出して来いということなのだろうな。
試されているようで極めて居心地が悪いだろうが。そこまで計算ずくで呼んでいるのだろうとは思ってはいる。

まあ、人間観察に行ってくることにする。

いつか自分が死ぬだろうが、その時はどうしてもらうかな。
関係者は少ないからあまり不安はないが。
親から距離を置いたのは正解かなとは少し思ったりする。
やんやんとかアカさまはしょうがない。どうしようもないから。
何度も死にかけて、まだ死ぬ準備ができていないことを思い知らされるのでした。

うつが自殺を引き起こす・・・ってのはよく言われるけれど、その機序の分析詳しくしたものどっかにないかな?
古典的なのは


このへんか。

キェルケゴールはちと違うと思う。

一般的に言われてるのはこんな感じか。
なぜ、「死にたい」と思うのか?――「ウツ」と「自殺」の関係
なんか、今の自分の考えてる方向の感覚とズレを感じるが…。
「パーソナリティ障害を背景にしたうつ状態」とどう違うのか。

安楽死との関係や、平穏死を望んでエンディングノートに書きつけておくのとどう絡んでくるのか。
最近のトレンドのひとつでもあるのかなんなのか。
暇があった時にでも考えよう。