カテゴリー: 生活

錆の哲学者 – 絶対逃亡不能論

序章:鉄屑の思考回路
松助は荷車を引く男だった。いや、荷車を引いている「つもり」の男だった。
「これは俺の歴史だ」「年季がある」「俺には仕事がある」。
どこからどこまで、薄っぺらな自己保存の呪文でしかない。
その荷車は松助の分身だった。錆びとひび割れに覆われた、お前自身の知能と良識そのものだ。
耳障りな軋み音は、お前の逃避言説が発する雑音に等しい。
家族、近隣、そして町全体が、お前という名の荷車の惨状を見抜いていた。
お前だけが「年季」と呼んで誤魔化し続けた。

第一章:逃亡不能論の発端
「荷車を使え」と言われれば「工房が忙しい」
「手伝え」と言われれば「段取りが悪い」
「お前が原因だ」と突きつけられれば「俺は稼いでいる」

論点回避、話題逸らし、虚勢の塗り固め――
松助よ、お前の一生は、「核心を掴まれないための戦術」の歴史だ。
だが、知恵なき回避策は「哲学」にはなりえない。
それはただの知的怠慢だ。
松助、お前は人生という名の会話から一度も逃げ切れていない。
お前が喉元で呟く逃げ口上など、すでに全方向から見透かされている。
家族の「疲労」も、隣人の「失笑」も、すべてお前の言葉が生み出した副産物だ。
逃げ場はとっくにない。
お前自身が荷車の上に、四肢を縛り付けられている。

第二章:思考停止の錆層
そもそも、「俺は稼いでいる」という万能句が通じるのは、自分以外の人生を一切考えなくて済む独身の浅知恵者までだ。
「年季」と「執着」を履き違え、役立たずな歴史を誇りと呼ぶ愚。
それが松助だ。
本質を語る場面では、必ずお前は「話をずらす」。
正面から答えたことはない。
なぜか?
答える知能も、覚悟も、責任感も、お前には存在しないからだ。

何十年と口にしてきた「俺は働いてる」。
その一言にどれほど周囲の人生を費やしてきたか、計算すらしていないだろう。
稼ぎと貢献を同一視するな。
金を得ることと、存在を認められることは無関係だ。
その荷車同様、お前の価値観はすでに鉄屑と同等なのだ。

第三章:観察者たちの冷笑
息子の冷淡な告発。
妻の諦念に染まった沈黙。
町の連中の嘲笑交じりのささやき。
これら全てが、お前という愚物が生成した現実そのものだ。

「何を言っても、どうせ松助はかわす」
「無駄だ、無駄だ」
そうして積み上がった「諦めの層」の下で、お前だけがのうのうと生き延びてきた。
いや、生き延びたつもりでいたのだ。
実際には、町全体がとっくにお前を「排除対象」として認識していた。
社会的絶滅危惧種、それがお前だ。
お前は「年季がある荷車」を誇ったつもりで、社会からの棄却通知に気づかない、滑稽な亡者になっていた。

第四章:逃げ場消失宣告
さあ、荷車は壊れた。
お前の象徴であり、逃避の道具であったそれは、もはや物理的にも機能しない。
そして、お前を逃がしてくれた家族も町も、もう背を向けた。
お前の逃げ道は全方向で封鎖された。
「俺は稼いでいる」という魔法の呪文も、もはや発動しない。
逃げ場ゼロ、言い訳無効、観察者全員敵
これがお前の現在地だ。

最終章:言い訳不能の哲学へ
ここで問う。
松助よ、お前は一体何を守りたかったのか。
「家族を支えている」という虚構か?
「俺には年季がある」という妄執か?
それとも、「逃げ続ければ捕まらない」という甘えか?

だが、もう遅い。
お前は人生を通して「対話不能者」であることを選んだ。
ならば、対話不能者の結末を迎えろ。
対話不能者は、言い訳不能者へと堕ちる
逃げ場を断たれたお前に残された道はただ一つ。
荷車の錆を削り取るがごとく、お前自身の思考の錆を引き剥がせ。
骨まで剥き出しにして、「俺は何をやってきたか」と直視せよ。

それができぬなら、
お前はもう、誰の目にも映らない存在に堕ちる。

総括:哲学なき逃亡者への遺言
松助よ、対話を避け続けた代償として、お前には「独白すら許されない地平」が待っている。
今、選べ。
全身の錆を引き剥がし、存在の痛みと向き合うか
それとも
このまま音もなく朽ち果てるか
私は、逃げ場など与えない。
この言葉が、お前の心の最奥まで染み込んで、逃げ場の床を焼き尽くす。

以上、お前という錆の哲学者への、最後の言葉だ。
存分に苦しめ。
そして這い上がれ。
それが出来ぬなら、せめて、黙って錆びていけ。

満足を語る者が見落とすもの――老朽車に乗り続ける住人の寓話

 とある集落に、やけに達観した風を装う住人がいた。彼はしょっちゅう「自分は今の状態でじゅうぶんだ」と力説するが、そのわりには細々とした自慢めいた言葉を絶やさない。曰く、「目立った派手さはないが、長い年月の積み重ねのおかげで今の自分がある」「手放すものがあっても、新たな日常を選べば問題ない」というのだ。確かに一理あるように聞こえるが、周囲はどうも釈然としない気分を抱いている。

 彼はある日、若い親類へ自分が乗っていた古めかしい運搬用の道具を譲った。それ自体は悪い話ではない。誰かの役に立つなら素晴らしいことだろう。ところが、その直後から彼は「自分は別の移動手段に切り替えるから問題ない」と語りだし、周囲を軽くけん制するような笑みを浮かべる。新しい環境でもしっかりやっていく自信がある、というアピールらしい。

 しかも、その移動手段とやらも相当古びているらしく、修理のたびに金がかかっている様子が透けて見える。ところが「いやあ、古いとはいえ、やはり力強さが違う」と言わんばかりに嬉々として語り、「むしろこれに乗ると爽快感が倍増する」と自慢じみた口調をやめないのだ。周囲からすれば「それならなぜわざわざ譲る話をして、改めて何かを誇るのか?」と疑問に感じるが、彼はお構いなし。どうやら他人の評価はさほど気にしていない――少なくとも、自分ではそう思っているようだ。

 さらに彼は、「かつて世話になった教師の言葉として、他人の領域がよく見えても実は自分の暮らしのほうが優れているかもしれない」といった主張をしきりに持ち出す。確かに、人は他者を羨む一方で、自らの環境に満足している面もあるだろう。しかし彼の場合、それが「自分は他者よりも先を行っているから不満などない」と結論づけるための材料にすぎないらしく、しばしば会話の中で「だから君たちは苦労が多いんじゃないか?」と暗に見下すような口調にすり替えてしまうのだ。

 こうした言動を目にする限り、真の意味で落ち着いているとも、周りに対して配慮しているとも言いがたい。むしろ、「我慢や努力を積み重ねてきたから今の自分がある」という理屈を振りかざしながら、実のところ内心では自慢の種を手放そうとしない――そんな印象を与えてしまっている。

 そもそも、地道に積み重ねた結果を誇示するのは悪くないとして、ならばわざわざ誰かを引き合いに出したり、「あれほどではないけれど、これでじゅうぶん」と他者をちらりと下に見るような態度をとったりする必要があるのだろうか。黙々と頑張る人は、わざわざ周囲に向かって「俺は我慢してきたんだ」と吹聴するより、日々の姿勢で示すものだ。

 また、彼は「今の自分がある」と言葉にしながら、その実態はどうなのか。譲り渡したものの後に残ったのは、使い込まれてガタがきている乗り物であり、適宜修理に費用を投じなければ動作が危うい。それ自体は誰しも経験する苦労だろうが、そうした現状を話題にするたび、彼は「むしろ不便さが楽しいんだ」と豪語する。ならば黙って楽しめばいいものを、「こんな苦労こそ本当の醍醐味なんだよ」と謎の優越感を漂わせるので、周囲はますます白けてしまうのだ。

 傍観者から見れば、彼が積み重ねているのは「本当に満足している」という姿勢ではなく、「自分は苦労しているから偉い」という自己陶酔に近い。さらには、「自分のほうが他人より状況をわきまえているのだから、これ以上何も学ぶことはない」とでも言いたげな雰囲気があり、まるで成長を拒んでいるかのようにも映る。

 もちろん、人がどんな手段で暮らしを立て、どんな乗り物に乗ろうと、それは個人の自由だ。日々の営みを自分なりに楽しむのも否定されるべきではない。だが、もし本当に「足るを知る」境地にいるのなら、それを声高に言いふらさなくても、自然に周囲へ伝わるはずではないだろうか。現実には、その話題に触れるたび、自慢か皮肉かよく分からない表情を浮かべ、誰かの生活をうっすら否定する。そうした場面を積み重ねれば、逆に「本当に納得しているのか?」と怪しまれても仕方あるまい。

 小さな集落では、彼の動向はちょっとした噂の種になっている。「毎回いろいろ言うけど、実際は周りを批判したいだけなんじゃないか」「本当は隣人を羨んでいるけど、負けを認めたくないだけでは?」――そんな声さえ飛び交う。しかし、彼自身は気づいているのかいないのか、昔ながらの乗り物に乗って颯爽と出かけては、帰ってきて「いやあ、やっぱりこういうのが性に合う」と誇らしげに語るばかりだ。

 もし、本当に「手に入れたものに満足する」生き方を目指すなら、自分以外を小馬鹿にする発言や、二言目には過去の努力を振りかざす態度は、むしろ逆効果だろう。謙虚さを装っていても、その根底に「他人と比較して自分は優秀だ」という思いが隠れていれば、それはにじみ出てしまうものだ。

 結局、彼の言葉は「独自の満足感」を全面に出すわりに、見栄や競争心がそこかしこに透けて見える。口先だけで穏やかに聞こえる文句を並べても、行動や物腰がついていかない限り、真の説得力は生まれない。「満足を知る」姿勢と、「誰かを見下す」行為は同居しにくいからだ。

 この先、もし彼が外面的な言葉に頼らず、さりげなく努力を積み重ねる姿を示せば、周囲は自然と「なるほど、あれが真の充実なのだろう」と感心するに違いない。しかし今の段階では、慎ましさを口にしながら自慢を忘れず、達観を気取っては他者を軽くあしらう、その矛盾は拭えないままだ。

 真に「いま持っているものを大切にする」境地は、案外、黙々と裏方で努力する人が知っているものかもしれない。多くを語らずとも周りが「彼は満ち足りているな」と感じる、その静かな光こそが説得力を帯びる。自分のすばらしさを言い募らずとも、結果は行動と生き様で示せばよいのだから。

 果たして彼はこのまま、矛盾めいた発言を繰り返しながら周りを煙に巻き続けるのか。それとも、ある日ふと我に返って、言葉だけの“達観”から抜け出すのか。小さな集落の人々は今日も、遠巻きに彼を見守りながら、密かに思うのだ――本当の満たされた暮らしとは、自慢話よりもずっと穏やかで、周囲に気遣いを見せられるものではないだろうか、と。

青く見える庭の幻……思い込みの壁が生む空虚な主張

 とある町はずれに、やたらと自信満々な人物が暮らしていた。彼は折に触れて「大きな目的を達成するのは重要だ」と声高に主張し、口ぶりだけは非常に雄弁である。だが、その具体的な内容はと言えば、ほんの些細な計画だったり、つい鼻で笑ってしまうような日常的な行為だったりする。周囲は「本人の自由だから構わない」と見守っているが、なぜか彼は「自分だけは特別な道を歩んでいる」と信じて疑わないのだ。

 さらに面倒なのは、彼が他人を低く見る発言を繰り返しながら、「むしろそれは人間の心理として大切なことだ」と謎めいた論理を展開する点だ。どうやら、心の中に渦巻く複雑な感情を肯定しようとしているらしい。ところが、よくよく聞けば「要するに自分のほうが優れている」という結論に落ち着いていて、結局は他者に対する配慮がまるで感じられない。

 彼いわく、「他の人の持ち物は魅力的に見えるが、自分のほうがさらに価値あるものを所有している」。どうしてそう確信できるのかは明らかにしないが、「昔、小学校でそういう話を聞いた」と自慢めかして語る。とはいえ、その話自体を真摯に受け止めているわけではないらしく、「自分は本当にわきまえて生きている」と周囲に言い張っているだけに見えるのが痛々しい。

 その一方で、彼の暮らしぶりを聞いてみると、維持に手間や費用がかかる乗り物にあれこれ手を入れる必要があって大変だという。だが、それを嘆くかと思えば「こういう面倒をいとわない自分はすごい」とすぐに自己肯定へ話をすり替える。日常の些細な話題を持ち出しては「実はこれはすばらしいことだ」とアピールするので、身近な人々はどう反応していいのか戸惑うばかり。

 もうひとつやっかいなのは、彼が調子づいて語る中で、時々「これをしないと危険だ」とか「長時間使い続けて不具合を起こさないようにしないと」などと妙に大袈裟な表現をすることだ。実際には、そこまでのリスクは考えにくいのに、あたかも自分だけが特別な警戒心を持っているかのように語り、「だからこそ自分は偉いのだ」と言わんばかり。

 町の人々は、彼の語りがだいたい自己矛盾だらけだと薄々気づいていた。なぜなら、「人は互いを羨むものだ」と言いながら、彼自身が他人の功績や新しい挑戦を見下す言動を繰り返しているからだ。「自分が周囲からどう思われているか?」にはあまり興味がないように見えて、実は「見られる自分」が大好き。そんなちぐはぐな姿勢を、周囲は苦笑いとともに眺めている。

 そもそも、多くの人が本当に大切にしているのは、口先だけの“意気込み”ではなく、一歩ずつ積み重ねる地道な行動である。目立たなくとも本気で励む人は、わざわざ他者をさげすまなくても、自身の努力を正当に評価してもらえると知っている。一方、彼のように大げさな表現で自分を美化し、周囲を嘲笑する態度では、いつまで経っても本当の意味での称賛は得られない。

 それにもかかわらず、彼は毎度、まるで深遠な哲学者にでもなったかのような顔をして、同じような話を繰り返す。口調だけは「理知的に世の中を捉えている人」を気取っているが、実際には「自分の庭のほうが素晴らしい」と言いたいだけ。そこに説得力は皆無だ。ましてや他者の気持ちを推し量るような思いやりの言葉はなく、ただ自身の満足を得るために思考を組み立てているだけなのが透けて見える。

 人には誰しも、自分の生き方や価値観を持つ権利がある。だが、それが“他者を軽んじるための道具”に堕してしまえば、いずれ誰も彼の話に耳を傾けなくなるだろう。口ではいくら独自の理論を並べたところで、矛盾をはらんだ論理と薄っぺらな優越感は、思いがけないところで信用を失わせる。

 彼が本当に自分の考えを大切にしたいのなら、まずは目の前の現実に目を向けるべきだ。周囲が自分をどう見ているかよりも、自分が周囲をどう見ているか――つまり、相手への敬意や思いやりを置き去りにしていないかを振り返ることが先決だろう。そういった配慮を忘れたまま、“自分だけは特別”という言葉をまくし立てても、誰の心にも響きはしない。

 本当に大きな成果を示したいのであれば、他人を遠ざける物言いではなく、むしろ協力を得られるような振る舞いを選ぶのが賢明というもの。表面的な言葉で威圧するより、誠実な姿勢で一歩ずつ実績を積んだほうが、はるかに得るものは大きいはずだ。

 結局のところ、口先だけで語る“すばらしい庭”など幻にすぎない。もし彼が「他者の意見も取り入れ、共に成長する」という姿勢を身につけたなら、その庭には実際に花が咲き、人々が集い、彼自身も満たされる日が訪れるに違いない。だが、今のまま自画自賛と他者への冷笑を続ける限り、そこに芽吹くのは不満と空虚さの種ばかりではないだろうか。

 いまだ彼に変化の兆しは見えない。それでも周囲の人々は、ごくまれに彼が素直な言葉をこぼす瞬間に期待を寄せている。いつの日か、この“青い庭”の幻想から抜け出し、実直に地面を耕しはじめる日が来るかもしれない――そう信じる人もいるのだ。言葉を並べるだけの高邁さなど、実践という名の光を当てればすぐに薄れてしまう。彼の庭が幻ではなく真の輝きを得るかどうかは、自分勝手な論理を脱ぎ捨てられるかにかかっているのだろう。

王国の整備士が見落としたもの……耳をふさぐ者の小さな冒険譚

 ここは小さな王国の片隅。砂埃が立つ街道沿いには、頑丈な車輪やら複雑な歯車やらを扱う整備士の店がある。年季の入った看板には大きく店名が書かれているが、くたびれた字体で少し読みにくい。店の主人は壮年を過ぎたあたりの男で、整備の腕前はそこそこ評判だ。古い乗り物を修理すれば、ちゃんと走るようになるから不思議なもの。

 ところが、この整備士はときおり口を開けば、「まあ、この俺にはこれぐらい朝飯前だ」といった自慢や、「次こそは天下無敵の技術を確立してやる」といった大風呂敷が多い。おまけに言葉の端々に皮肉っぽさを含ませることもあるのだが、当人はまったくそのつもりがないらしく、言われた方は微妙な表情を浮かべるばかり。

 ある日、通りかかった町の人々が世間話のついでに「近頃、王国内の揉め事が目立ってきたから、歴史から学ぶ必要があるよね」と話していた。すると整備士は「それそれ! みんな勉強不足なんだよ。俺ならもう少し賢く立ち回るけどね」と賛同するものの、「具体的には?」と聞かれても妙にあいまいな笑みでごまかす。どうやら本当のところは、深く考えたことがないらしい。

 また別の日には「自分はもうすぐ新たな道具を自在に操れるようになる予定なんだ。まだ周囲の者には見えない先を行っているんだよ」と豪語する。聞いた人々は、「なるほど、すごい計画だ」と言いつつ、内心は(どうやって習得するんだろう? 年齢的にもなかなか厳しそうだけど…)と首をかしげる。けれど彼自身は、そうした周囲の戸惑いにまるで気づかない。むしろ自分が称賛されていると勘違いし、ますます胸を張るのだった。

 そんな整備士の店先には、いつも古い乗り物が一台止まっている。あちこちガタが来ており、修理するたび金がかかる。本人はそれを手間とも思わず、「いろいろ大変だけど、まあ仕方ないんだよ」と、どこか鼻高々に語る。しかし、その費用の話は頻繁にするわりに、自分の技術を洗練させるための投資だとか、周囲からの信用を得る工夫だとかには、あまり関心を示さないようだ。

 あるとき、町の広場で物語の読み聞かせイベントが開かれた。そこでは「才能があると自称しながら周囲を見下し、結局は自分の姿が冷ややかな嘲笑の対象になっていることに気づかない」という寓話が披露された。聞いていた人々は「あれ、まさに整備士のことじゃない?」とこっそり目配せ。しかし、本人は上機嫌で拍手を送りながら、「そうだよなあ。自信過剰な連中は痛い目を見る」と大声で頷いていた。

 隣にいた客人が「今の話、あなたも心当たりがあるんじゃないですか?」とおそるおそる問いかけたが、整備士は「いや、俺は違うさ。まさにああいう人間こそ反面教師だよ」と笑い飛ばしてしまう。すっかり“誰か別の痛い人”としてしか捉えていないのだ。周囲の者は苦笑いするしかない。

 しかし、これには続きがある。物語の締めくくりとして語られたのは、「もしもその登場人物が、ほんの少しでも自分の足元を省みたなら、別の未来が開けたかもしれない」という結末だった。聞いていた人々は「なるほど。誰しも間違いや勘違いに気づく機会はあるんだな」と納得しつつ、整備士の頑固な姿を思い出しては複雑な気持ちになった。

 イベントのあと、整備士はいつものように店に戻り、年季の入った乗り物の修理を始める。客の一人が「そろそろ買い替えるとか、別の方法を検討するとかもアリじゃないんですか?」と尋ねると、彼は「いやいや、こんなにこまめに手を入れているんだから、あと十年は大丈夫だ。それに、俺の先見の明があれば問題ない」と豪語する。現実には、部品の寿命が近くて苦労している様子がまるわかりなのだが、本人は「完璧に回ってる」と信じて疑わない。

 さらに、「何を成し遂げるかは、この先のお楽しみってわけだよ。ま、そのへんの人には理解できないだろうけどね」と続けるものだから、周囲の空気が微妙に凍る。誰も否定はしないものの、まるで遠くを見つめるような視線を送っている。普通なら気づきそうなものだが、整備士はいっこうに気づかない。

 そんな彼の姿は、まるで夢の中にいるようでもある。皮肉を言われても、それを自分へのエールと勝手に変換し、叱咤されても「そうそう、世の中には上から目線の人が多いから困るよね」と他人の話として処理する。本人の中では「自分は特別だから、やがてすべてが結実する」と確信しているのだろう。

 それならそれで好きにすればいい――町の人々はもう、そう考え始めている。人生は各々が選ぶもの。傍から見れば苦笑ものでも、当人が満足しているなら口出しも難しい。それでも、彼の語る壮大な夢や威勢のいい話を耳にするたびに、誰もが「もしかして、あの物語の登場人物って、この人のことなんだけどなあ」と心の内でつぶやいてしまう。

 いつか整備士が本当に未来を切り開き、新たな技術で大活躍するのかもしれない。だが、そのときになって周囲の協力を得ようとしても、すでに誰もが背を向けていた――なんて展開は、できれば避けてほしいところだ。
 要は、一瞬でも立ち止まり、自分の姿を振り返ってみるかどうかなのだ。ちょっと考えれば、皮肉なのか称賛なのか、周囲が何を言わんとしているのかに気づく機会は必ずある。それでもなお、自分には無関係だと言い張るのならば……本当に目が覚めるまで、きっと多くのチャンスを取りこぼしてしまうだろう。

 そんな彼の背中を見送りながら、町の人々は今日もささやかに祈る。「どうかこの先、部品の交換だけでなく、心の調整もできるようになりますように」と。何しろ、直すべきところを見誤ったままでは、どんなに良い道具があっても十分には役立たないのだから。

気付かない者は夢の中……とある「大志」を抱く人への寓話

 ある静かな町に、自分ではたいそう大きな志を持っていると思い込んでいる旅人がいました。年齢的にはそこそこ人生経験を積んでいるようなのですが、どういうわけか口を開けば「自分はいつか遠くの地で大活躍するんだ」という自慢話か、さも世の中を俯瞰しているような講釈ばかり。

 しかし、町の人々からは「本気で言ってるの?」という薄い反応をされることもしばしば。それでも本人はまったく意に介さず、むしろ「まあ、凡人には理解できないだろうね」と上から目線で笑みを浮かべるのでした。

 ある日のこと。その旅人は街角で、ちょっとした物語を耳にしました。誰かが自信過剰な者の姿をおとぎ話に例えた、一種の寓話だったのですが、「ああ、それは他人事だね。傲慢さはよくない」と得意げにうなずきながら、「いやあ、自分は謙虚に生きるから違うんだよね」とさも他人事のように言い放ちます。

 けれども、その場に居合わせた何人かは、心の中で(何を言っているんだろう、この人は……)と苦笑い。どう見ても、語っている内容がぴったりその人自身に重なるように思えるのですが、本人はまるで気がついていない様子なのでした。

 彼がさらに話を続けるには、「世界の動きはあたかも過去のある激動期に逆戻りしている。歴史から学ばないのは愚か者だ」と大上段に構えつつ、一方で「いずれ自分は特殊な装置を操る腕を身に着け、騒乱のさなかを縦横無尽に行き来するんだ」と夢見がちな宣言をするのです。

 周囲の人々はと言えば、困った表情で「へえ、それはすごい計画ですねえ」とやんわり相槌を打つのが精一杯。内心、「本当にやるつもりなの? そもそも、そんな年齢で無事にあちこち動き回れるんだろうか?」と思いながらも、否定したり笑い飛ばしたりはせず、せめて穏やかに言葉を交わそうとしていました。

 旅人は、そんな周囲の反応を「自分にひれ伏している」とでも受け取っているのか、「やはり自分の考えは正しいんだな」とばかりに自信を深めていきます。もはや、誰が何を言っても「そうそう、わかるわかる。みんな自惚れはダメだよね。自分は絶対そうはならないよ」と流されるだけ。

 そこで、町の賢者と呼ばれる人物が、ある奇妙な道具を取り出しました。鏡に似ているのだけれど、ただ姿を映すだけではなく、そこに映る者の“本音”や“認識のズレ”が浮かび上がるのだとか。

 賢者は旅人に向かって言います。
「あなたはとても崇高な理想をお持ちのようだ。しかし、この鏡を覗き込めば、もしかすると別の景色が見えるかもしれませんよ。見てみませんか?」

 旅人は「へえ、面白そうだね」と意気揚々と鏡を覗きこみました。そして現れた自分の姿を見て、何を思ったのかしばし沈黙。しかし、何事もなかったかのように顔を上げ、「ああ、まあ、自分は違うと思うけどね」と言い捨て、その場を離れていったのです。

 鏡には、周囲を見下しながら無自覚に自慢げに振る舞う彼自身が映し出されていました――まさに、彼が他人に「そういうのはよくない」と断じた姿そのもの。自分で自分に「謙虚でありたい」と言いながら、実はその謙虚さを証明しようともせず、むしろ自慢話で埋め尽くしていたのです。

 旅人はその後、「いやあ、あの鏡はたいしたことなかった。自分には関係ない像が映っただけだよ」と言いふらし、町を去っていきました。賢者はため息まじりに、「人の心ほど難しいものはないものだねえ。結局、鏡を見ても気づかぬ人には何の意味もなかったか」とぼやくばかり。

 町の人々は、彼の後ろ姿を見送りながら、「もし次に会うことがあったら、もう少し穏やかな笑みを浮かべてくれるといいんだけどね……」と口々にささやき合いました。誰も彼が抱く大きな願望をバカにはしません。ただ、そこに辿りつくまでの道のりで、もう少し周りを見渡し、誰かの話に耳を傾けるゆとりを持てれば、きっと結果は違ったのではないかと感じていたのです。

 人は誰しも、自分は正しいと信じたくなるものです。ましてや、自分を客観的に見るというのは、そう簡単なことではありません。でも、だからこそ、小さな疑問を感じたり、ほんの少しでも「もしかして自分の振る舞い、おかしくないか?」と立ち止まれるかどうかが、大きな分かれ目になるのでしょう。

 見えないものに憧れ、見たくないものから目を背けつつも、走り続ける人。そうした姿が時におかしく、時に少し切ないのは、誰しもが少しずつ抱えている弱さのせいかもしれません。自らの背に「謙虚」の看板を掲げていても、ふとした拍子にその看板が裏返り、「実は傲慢」という文字が浮かび上がってしまうこともあるのです。

 旅人がいつの日か、再び町を訪れる機会があるかどうかは分かりません。もし来るとしたら、ぜひ今度はあの不思議な鏡をしっかりと直視し、映る影に真正面から向き合ってほしいと、町の人々は密かに願っているのだとか。鏡自体がどうこうというより、そこに映ったものを認められるかどうか。それさえできれば、例えどんなに高齢であろうと、新たな一歩を踏み出すことはきっとできるはずです。

 ただし、いくら凄まじい夢を追いかけようと、周囲を見下すばかりでは旅は長続きしないかもしれません。どんなに雄大な計画を語り尽くそうと、謙虚さを知らなければ足元をすくわれることもあるのですから。

 どうかこの物語が、まだどこかをさまよっている彼の心にも届きますように――鏡の中には、そう願う町人たちの祈りがそっと反射しているのかもしれません。