他人事となると、人が死んでもなんとも思わないという現実。
でも、お悔やみに出かける。
打算的なのか、社会に適応してるのか、何なのか。
死は大きなことだけど、しょせん理解できないから、そうなるのだろうな。
不謹慎だとかそうでないとかいう話でもなく、流されていく自分。
心底、共感できていない事実。
葬儀に出席する人間、通夜に出てくる人間がどのくらい悲しんでいるのだろうか。
悲しい人もいるのだろうし悲しむ人を助ける必要もあるのだろうとアタマでわかろうとしても…。
なんか儀礼的なものに出て行く意味を見失っている。
しかし、出ていかなければ社会的に抹殺されかねない、という恐れ。
そんな人間が集まって意味あるのかなと思うんだけれども、
深く考えてもしょうがないので、
訃報を送ってきたということは来て欲しいということなのだろうと解釈。
自分にとって意味がなくても、相手、身内に死者が出たものにとって意味があるのだと。
と解するが、納得しきれないものが残る。
死というものは、自分に必ず訪れるものではあるけれど、自分の体験する死はすべて他人の死であるのだ。
悲しいのは、亡くなったことではなく、亡くなることによって周りが喪失することから生じるのだなと。
会ったことない、あるいはその人の亡くなることで自分が失うもののない人間の死で悲しみは生じない。と思われる。
悲しいのは関係の喪失によるのかなと。
だから、自殺未遂して周りを困惑させる人間は、その辺を意識的にか無意識的にか計算しているのだろうな。
リストカットもオーバードーズも、人との関係において意味がある行為ということで、
こういうのをやる人間は「生きるために」やるとよく言うけれど、関係を確かめる方法としては確実かつ効果的だけど、
「ほんとうの」人間関係を破壊するものであることを分かっていないのだろうなとの想いに至る。
一種の暴力であるということも言えるだろう。関係者に対する。
だから、そういうことをする人とは積極的に関係を断ち切る。でないとこっちのヒューズが飛ぶ。
ヒューズが焼き切れる前に、ヒューズのつながっている回路を外しておくわけだな。
自分の他人に対する感情が鈍麻してしまわないように。
今回亡くなった方の死因等は一切わからない。
そのくらいの関係ではある。
訃報を送ってきた方と自分の関係は、微妙な関係なのであるが、
仕事上の付き合いということで無下には出来ない。
悲しんでいる方を見舞うという意味で行くことになるわけだが、
本心、その方が悲しんでも…自分にとってどういう関係があるかというと、まったくもって功利的な理由で見舞うとしか言いようが無い。
亡くなった方を弔う場にそんな感じで出かけていくのは違和感がある。
でも、顔を出して来いということなのだろうな。
試されているようで極めて居心地が悪いだろうが。そこまで計算ずくで呼んでいるのだろうとは思ってはいる。
まあ、人間観察に行ってくることにする。
いつか自分が死ぬだろうが、その時はどうしてもらうかな。
関係者は少ないからあまり不安はないが。
親から距離を置いたのは正解かなとは少し思ったりする。
やんやんとかアカさまはしょうがない。どうしようもないから。
何度も死にかけて、まだ死ぬ準備ができていないことを思い知らされるのでした。
うつが自殺を引き起こす・・・ってのはよく言われるけれど、その機序の分析詳しくしたものどっかにないかな?
古典的なのは
このへんか。
キェルケゴールはちと違うと思う。
一般的に言われてるのはこんな感じか。
なぜ、「死にたい」と思うのか?――「ウツ」と「自殺」の関係
なんか、今の自分の考えてる方向の感覚とズレを感じるが…。
「パーソナリティ障害を背景にしたうつ状態」とどう違うのか。
安楽死との関係や、平穏死を望んでエンディングノートに書きつけておくのとどう絡んでくるのか。
最近のトレンドのひとつでもあるのかなんなのか。
暇があった時にでも考えよう。