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読書記録

読みかけの本から考えた(3)

精神科治療の覚書 (からだの科学選書)

まだ読了できずにいます。いちいち納得させられる文章の連続で、いい本です。
読んでてなるほどなあと思いました。
自分の苦手なところがこういったところと関係しているのだと感じました。

p155より(精神病患者について)

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ちょっと本当とは思えないかも知れないけれども、次のようなことがふつうは不可能になっている。
Aのような、ふちを枠どりした紙を見せて、この枠の中を自由に仕切ってくださいという。健康な人や寛解過程にある人はたいていBあるいはCのような仕切り方をする。実は経験上、Bのような仕切り方をする時は、大きな変化はのぞめないけれど、その代り、突発的に悪化したりもしないし、Cのような場合は、治る方向にせよ、変化の起こりやすい時であることが多いのだが、それは措くとして、急性期の時は、枠の中を仕切るということがまったくできない。
「できない」という意味は、いろいろにとられそうである。たまたまBやCの図を見せて、この通りに画いて下さい、といえば、多分、ひどく弱々しい線でだとは思うが描けるかも知れない。そうではなくて、枠の中を自由に仕切る、ということができないのである。これは能力的というより原理的にできない、という言い方をした方がいいだろうか。私がかつて気づいたこの事実は一対一の治療者患者場面で「自由な構成」ができないという意味である。枠を二分するような、簡単な分割もできない。「自由に、とはどういう意味ですか」「自由に、というのが判らない」「自由に、といわれると途方に暮れる」という感想がしばしば語られる。構成とは、上下左右といった方向性と、枠のような限界のある、素白の空間に何かを組み立てることと考えてよいだろう。
構成ということに関しては「自由」という原理が働かなくなっているといってよい。だから、急性期にある人に、将来の計画をきいたり、その他のことを求めるのは、ひどい無理を強いていることになると私は考えている。

私にとっての今問題になっていることは、大阪での生活を始めて軌道に乗せることなのですが、支援してくださるワーカーは、あくまでも私の意向に沿った形での支援をしようとなさいます。しかし、まったくわからない土地で、資料をポンと渡されて自由にしてくださいと言われると・・・大変困ります。

これが病気のせいかはわからないのですが、自分の生活を自由に決める、あるいは自分の職業を自由に決めるというのは、すごい困難を感じます。ここで出てくる図を仕切るという課題に通じるものがあると感じます。住まいも職業もある程度の枠があり、その中で自由に自分の生活を作っていくことになります。これに非常に困難を感じます。他人の希望をかなえるために、あるいはなにかハッキリした目的があってそれを実現するために物事を決めていくことには、あまり抵抗を感じないのですが、自分のために自分の自由にするということについてはとても難しいと思います。

本来、枠としてPSWを取れたことだし、仕事を見つけて、それに合わせて生活を構成しようと思っていたのですが、順番が逆になり、生活から決めていくことになりました。言ってみればまっさらなところに生活の絵を描けということになったわけです。枠としては大阪府某市内にてという枠はあるのですが、その中で生活を具体化するのが非常に難しい。何が難しいって頭の中に生活風景が浮かんでこない。過去の一人暮らしから想像しようとするのですが、全く思考が先に進まない。

とりあえず、住まいを確保してそれから考えようと思うのですが、住まいの基準もまっさらなところから。かろうじて家賃の水準を決められる程度。少しずつ具体化してはいるのですが、自分でやっているというより不動産屋の手玉に取られているかのごとき状態です。あちらも客商売ですから悪いようにはしないと信じていますが・・・。

自分の優柔不断さに嫌気がさしていたのですが、病気の症状(?)が尾を引いているのかもしれないなと思わされました。

当事者のミーティング重視の施設運営の話などもよく聞きますが、こういったことのリハビリになっているのだなと思いました。何かをやり遂げることのために、自由を与えられ、その枠の中で活動ができるようになるということは大事なことなのだなといまさら考えさせられました。

 
でも、自由ってつらいです。いろいろ自己責任っていうけれど、中途半端な情報を元に限られた時間で決断を下していく・・・。苦手なところです。いざという時のふんぎりはわりとつけられるとは思うのだけれども、結果が伴うかはまた別の話。仕事を始めたら毎日これにさらされます。統合失調症者の仕事が続かない原因の一つではないかなと、思ったりしました。


蛇足
現在、日本の政治の仕組みは自由に見せかけながら実は出来合いのものを選ぶだけといった感じのものです。自由という名でもって拘束されている・・・そんな印象を受けるのは気のせいでしょうか?試験もマークシートばかり。選ぶことはできても、お仕着せの自由でいっぱいな気がします。私が何を言ってもしょうがない・・・という感覚は病的なものでしょうか?日本国民は自由なのでしょうか?・・・というと自由の意味が変わってくるのですが。そのあたり議論は混乱するところなのでしょう。自由と拘束は一体のものでもありますし。つまりお互いの約束がないと自由はないわけです。

「やっと本当の自分に出会えた」を読んで

「やっと本当の自分に出会えた」上森得男 を読みました。

統合失調症を患った家族と本人の書いた本です。
家族に統合失調症を抱えるというのはとても大変なことだと思います。
私自身振り返っても、だいぶ家族には苦労をかけました。

この本のカギは新薬「リスパダール」。
私も飲んでいたことがあります。頓服用の液剤は残念ながら使用したことはありませんが。
新しい薬で目の前が開けるように回復していった様子が書かれています。

私も時期的に、旧向精神薬から非定型向精神薬への過渡期に
統合失調症の治療を受けました。

私の感想としては、「薬剤が決め手の全てではない」です。
私も新薬に切り替えましたが、体感できるほどの違いは感じませんでした。

ただし、発症後、はじめて薬を飲んだ時にはそれが強烈に効いたのを覚えています。
旧薬だったのでしょうが。初診の後で赤い錠剤を渡されて飲んだのですが、
それから2日間眠り続けました。(なんだったんだろう?)

薬は確かに効くのです。
効き方は個人によって大きく差があります。

現在私は、ジプレキサを1日10mgの処方になっています。あとは睡眠導入剤と副作用止め。
再発予防のための維持量ということだと思いますが、
未だに被害妄想的な部分は残っており、性格もあいまって病気で障碍なのだと思います。

アドヒアランスにも触れられていますが、薬の作用機序は完全には分かっていないはずで、
(神経伝達物質の量を調整するとなぜ症状が変化するのか?どのように関係するのか・・・?)
そこで完璧なアドヒアランスを求めるのは苦しいんじゃないかと思うのですが、
「多くの人が効いたという統計がある」ということで納得していいものかどうか。
薬を飲むことは大事だけれども、その根拠はまだ盤石ではないということも
頭の隅に置いておきたいところです。

「回復する病気である」という希望を与えるための本なのでそんなことを言うのは野暮なのですが。

書かれたのが自立支援法施行前ということで、福祉施策にはあまり紙数が割かれていません。
一旦この病気にかかると長期のサポートが必要であることが多く、
それには福祉面からの視点が必要なのですが、とりあえず様子見という書かれぶりでした。

急性期の患者さんを抱える家族に渡すにはいい本かもしれないとは思いました。

「鈍感力」を読んで

「鈍感力」渡辺淳一 を読みました。シバさんのおすすめです。

対「軽症神経症」対策本といったところでしょうか。

繊細に、細かいことに注意を払い、緻密な作業を仕事としている人には毒かもしれません。
いいかげんさが許される世界と、許されない世界があります。

私が前に務めていた工場では、いいかげんさがまかり通っていました。
社長以下、いい加減のかたまり。
経営戦略もいいかげん。品質管理も製造計画も人事もみんないいかげん。
まさに鈍感力の支配する会社でした。

しかし、ISO重視という世の中の流れに逆らうことはできません。
いい加減さをなくすために大量の書類が作成されました。
わたしはそれにからんでいました。ISO9000関連ですね。

会社の仕組みをマニュアルに落とす作業になるわけですが、
鈍感力溢れる会社では、マニュアルなんて作れません。
すべてがいいかげん。

検査していない製品が検査済みとして出荷されているのです。
検査のマニュアルをどう作れというのか・・・。

生産設備もボロボロです。加工機械ごとにまるで違った癖があります。
そこをだましだまし使っているのです。
同じものを違う機械で作れば(機械のスペック、種類はまったく同じ)
同じかというと、それが全く違う。

さらに、材料も品質が一定していない。

さあ、鈍感力の出番です・・・。

日本の自動車はそんな鈍感力によって作られた部品を使用しています。
最高益を享受していた昨年までに下請けをどれだけ救っていたのか。
現在の窮地でそのツケが回ってくることでしょう。

ナイーブな神経では勤められない日本社会。
その象徴としての「鈍感力」だと思います。

読んであんまりいい気持ちがしなかった。
まともそうにみえて、まともじゃないということがあります。
両極端はどちらもいけないのでしょう。

中庸というのもまた違う。
適切なところに適切な配慮を。
それが知恵というものだと思います。

「10cmの夜空」を読んで

「10cmの夜空」山下南穂子 を読みました。

精神科病院への入院体験記です。
ブログをまとめた本なのですが、リアルです。

この本に書いてあることは、私の入院した時の体験とも符合するし、
昨年の精神保健福祉援助実習での実習体験とも重なります。

かなり入院体験者の感覚を正確に表していると思います。
言ってみれば「生々しい」。

患者さんにもいろんなタイプの方がいらっしゃいます。
この本にもいろいろな人たちが出てきます。

大人が閉鎖された空間で管理されながら生活する。
病気に果たしてプラスになるのかマイナスになるのか?
そこを考慮して様々なタイプの病棟が作られるようになっています。
それがいいことなのかどうかはわかりませんが・・・。

多人数で生活すると当然グループができてきます。
グループから外れる人も出ます。

一般社会の中で精神障害者が一種のくくりのようなもので扱われるように、
病棟内では患者グループでくくられていきます。
友好関係、敵対関係。一般社会の縮図がそこにはあります。
ただ、急性期の他人どころではない方や、慢性的に具合の悪い方は別として。

この本はその様子を等身大に描きだしています。
精神科病棟に入院するとどんな感じなのか、
雰囲気を知るにはとても良い本だと思います。

ただし、極めて主観的な視点で描かれています。
なぜそのような状態に置かれるようになったのか。
医療側の事情はどうなのか。
あわせて知ることが必要だとも思いました。

単純に感想を言えば「ああ、そんな感じだよね」・・・です。

「『うつ』かな?と思ったら読む本」を読んで(怒)

「『うつ』かな?と思ったら読む本」斎藤茂太 を読みました。

駅のキオスクに並んでいたので最近の啓蒙書かな?と思ったら、
よく見たら平成7年に刊行された「落ち込み上手は生き上手」を
改題し新書化したものだそうで、後で気づいた自分に少し怒りが・・・。

「2009年3月23日 第1版第1刷発行」となっているのに騙された。
しかも、元になった本の編集関係者には連絡が取れなくなっているらしい。

株式会社アスペクト!商売がうまいぞ!!

で、内容ですが昨今のうつ病の認知度を上げた功労があった本のうちのひとつなのだろうと思うのですが、なんせ14年前の本・・・。現在のうつ病治療とはズレがある。これ読んで悪影響受けた人が出たらアスペクトの罪は大きいぞ。著者は2006年に逝去してるし。

この本を読んでしまったら解毒用として、前に紹介した
「躁うつ病 患者・家族を支えた実例集」

を読んでおくなどの手当てが必要かと思われます。

読みながらなんかおかしいと思っていたら・・・。
擬態うつ病の原因を垣間見た気がします。

いくら新書ブームだからってこれはないとおもうよ。良識を疑わざるを得ない。

少なくともアスペクトはこれから私個人は信用しないことにしたいです。そういう出版社だとは知らなかった私が悪いのです。斎藤茂太の遺族もこれを許した以上、故人が警戒して見るべき人物のひとりに加えられることは覚悟の上でしょうか?せめて誰かが改稿か補綴くらいしたらどうかと思うのですが・・・。せめてあとがきを追加するくらいは・・・。

私は精神科医ではないから内容についての是非は何とも言えないけれど、
現在のうつ病についての知見からすると問題をはらんでいそうな本です。

いえね、エッセイ集として見ろって言うんなら発表当時の世相を見る意味でもいいかなとは思うんですが、改題した上に派手な帯つけて「『うつ』よさようなら」って・・・。

ああ、なんてむなしいんだろう・・・。