カテゴリー: 読書

読書記録

「そしてウツは消えた!」を読んだ

「そしてウツは消えた!」米倉一哉監修 織田淳太郎著 を読みました。

宝島新書ってのは当たり外れが大きいのだということがわかりました。
いえ・・・これが外れとは言ってませんよ。
私には、この本には辛口なことしか書けません。ええ、きっと私の深層心理に何か問題があるんでしょう。なんか変なものが抑圧されているのでしょう。

この本、結局何が言いたいのかよくわかりませんでした。私と相性が悪いと言うべきか。読んでる私が悪いんです。著者の言いたいことを読み取れない私の読書能力の低さが悪いんです。

実例と米倉氏のコメントと著者の意見が入れ替わり立ち替わり出てくるのですが、TV番組の作りのように断片的で、都合のいいように話を組み合わせたようにしか思えない。ええ、私の主観ですが。

精神分析系統の治療法の話なのだろうけれども、話の軸が何なのかよくわからない。
数人の話と権威者の話を組み合わせて、何かを語ろうということなのだろうけれど、その何かが何なのかは私にはわかりませんでした。うつのことを語ろうとしているのか?そういう感じもしないでもないけれど、ピントが・・・。

2007年7月24日第1刷発行。駅のキオスクで買ったんだけれど、720円は・・・と思いました。
新書の乱発行の中で、編集者の腕によってこういうことになるのだろうと感じました。

私が感じただけですよ。私が悪いんです。

読むのに費やした時間は戻らない・・・。そんな事実だけはハッキリしています。
精一杯私が悪いのです。

私が悪いことに気づけたことに感謝!です。ありがとうございます!!

・・・ホントに私の読書能力が低下してる気がしてきています。
そのくらい散漫な本だったのか、私の病気の具合が悪いのか・・・?

読みにくい本ではないんですよ。
ただ、何を言いたいのかが読み取れない。

ええ、それでも感謝です!みんなありがとう!!
神様!こんな本に出会わせてくれてありがとう!

世界には無駄はない!本を選ぶ時の選定眼を鍛えてくれました!
厳しく、慎重に、衝動に任せずに本を買わなければいけません!
いい勉強になりました!

なんで監修者に最初から最後まで書いてもらわなかったんだろう・・・?

春先の不健康と不運とマーフィーの法則

暖かくなってきたかなと思ったら風邪ひくし、
木々に花が咲き始めたらデジカメは壊れるし、
新居住地は一気には決まらないしでぱっとしない。

風邪は睡眠をとれば治るだろうと見込んで放置。
デジカメは電気屋行って適当なの見繕ってこよう。
しかし、風邪が治るまではあまり外出したくない。
筋肉痛も出てきてるし、花粉症とあいまって鼻炎はひどいし(慣れてるけど)。

新居候補は絞っては見た(下図)。築25年。現物を見て決めたいが、
見て良し悪しが分かるほど目は肥えていない。
何回も足を運ぶわけにもいかないので、ある程度賭けである。

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そんななか町内会の資料を作る。
あわてることはないのだが、OOoのwriterの調子がいまひとつ。
Office2000を急場しのぎに使っている。

Chromeもコピペ時にカーソルがへんな挙動をする。
ブログもテーマ変えたら崩れたページがあってどう直そうか思案中。

こないだは車を脱輪させたばかりだし。
半分居眠り状態だったのか?
免許証返納ものだな・・・。

頭が部分的にのみ稼動していることがたまにある。
それでたいていのことはこなしているのがたちが悪い。
記憶が飛んでいるとたいそう気持ちが悪いが、
もともと記憶力はそんなに良くないのでなんともかんとも・・・。

しかし、やることなすこと歯車がかみ合わないと言うか・・・。

春だからなのだろうか?
きっとそうだ、そうにちがいない。
致命的なところまで行かないうちに調子を戻さねば。
いや、夏に早めに来てもらわねばならない。

マーフィーの法則が発動してるんだな・・・。
当然、あっちのほうのマーフィーの法則だけど。
・・・ということは、今年は夏が来るのが遅れるのか?

統合失調症の「病識が無い」ってのはとても恐い。
自分が気づかぬままになんかしらやらかしてしまうわけで・・・。
今回は今までと様相が若干違ってはいる。
でも、突っ切っていかないと。

そんなことを考えるとき、人生は究極的には賭けなのだと思いつつ、
マーフィーの法則を思い出し、背筋が寒くなるのでした。

「それは『うつ病』ではありません!」

低空飛行の今日この頃。
奇跡的にさらっと読めてしまいました。

しかし・・・感想を素直に書けない。
内容的には十分納得しているけど。
そしてここを読みに来る可能性のある「擬態うつ病」いや「気分障害」の人に遠慮して・・・。

私は自分が「統合失調症」なことに甘えないようにしなくちゃ。
うつ状態と過覚醒やら妄想やらをコントロールしなくちゃ。
自覚するのが難しいのだけど。

いつもの林先生と文体が違ってる。
blogやってる「うつ病」の人は読んで見るといいと思うよ。

それ以上は恐くて書けない・・・。
自覚するって難しいことなんだ。

しばらく前に「うつ病」の診断を受けたリストカッター(♂)に振り回されたことがある。
あいつは「擬態うつ病」だったんだなと確信。

でも、どんな対処をすればいいのかいまだわからない。
PSWとしてそういう人と出会ったらどうすればいいのか?
かなり恐怖に近い不安を感じます。

「あなたは当事者ではない」

「あなたは当事者ではない <当事者>をめぐる質的心理学研究」
宮内 洋・今尾真弓 編著
を読みました。

  • <当事者>をめぐる拡散反射
  • 固定化された関係を越えて
  • 質問者/回答者関係の逆転ーいったい何を問われているのかー
  • <私>の<当事者>試論ー性同一性障害/トランスジェンダーの<当事者>と出会って
  • 自死遺族支援組織の成立と遺族の声のポリフォニー
  • 「あなた病む人、わたし治す人」?-医療者が持つ当事者感覚についてー
  • 当事者「である」こと/当事者「とみなされる」こと
  • 当事者であることに目覚める・離れる・また近づく
  • 障害者による障害者心理の研究の意義と課題
  • 「当事者研究者」の流儀ー2.5人称の視点をめざしてー
  • 「カウンセラー」という曖昧な自分と向き合う
  • フィールドワークにおけるジェンダー -ジェンダーをともに生きる<当事者>としてー
  • 同じ<場所>にいること-「当事者」の場所論的解釈-
  • 原風景研究と関連する「地域性」と「当事者性」
  • 意味解釈に現れる研究者の当事者性-あるエピソード解釈の事例から-
  • 当事者視点に立つということ
  • 「当事者」についての研究の仕方についての考えについての論文集でした。
    有名なべてるの「当事者研究」についても少しだけ触れられていますがそれとは異質な感じを受けました。と、いうか研究者のスタンスについての本でしょうか。

    人は生きてる以上、何らかの当事者であるのですが、その当事者が他の人を、つまり他の「当事者」と関わる場合どんな関係となるのか。どんな視点で関係を見ることになるのか。いろいろ研究するにあたって専門家としての視点と当事者としての視点をもつということはどういうことか。それらの切り分けはどうあるべきか。<当事者>と<非当事者>と、その境域から考える・・・と言う内容です。

    正直言って、論文ごとに焦点が異なっていてまとまった結論みたいなものはないのですが、私たちは、自分が何者であるか無意識にも意識的にも何らかの形で持っていて、そのうえで日常を送っています。何かを研究すると言う時、客観的な視点からものごとをとらえようとする場合、研究者の持っている当事者性が出てくるために客観的であると言うことが難しくなります。当事者でないから分かることと、当事者であるからこそ分かることがあるようです。

    たとえば自分が「女性」であることの当事者である場合、男性相手のときと女性相手のときでは同じことを観察をしても異なった回答が予想されます。日本人が日本人を見るときと外国人が日本人を見るのでもやはり異なります。見るほうと見られるほうのどちらが当事者でどちらが当事者でないかの違いによって、ものの見え方が違ってきます。
     
    ここから自分のことについても含めて。私は統合失調症の当事者です。だから統合失調症のことはよくわかるかと言うとそうではない。同じ病気を持つ方のことを非当事者の人から見た場合以上に理解できるわけではありません。自分の体験については実感を持って語れるけれど、他の当事者とはしてきたことも感じ方も違うわけで、そこは健常者同士でも分かり合うことが難しいと同様に、他の当事者について理解することは難しい。

    でも、話を聞いて「その感じよく分かる」とか「それと同じことを経験した」とか非当事者とは明らかに違ったものごとの捕まえ方ができることがあります。利点でもあるし、分かったつもりが危険な時もあります。

    「共感」を持つことの微妙なさじ加減は、難しいです。

    明らかに個人同士は異なります。でも、共有できるものもあります。
    この本の152ページにある図が印象的です。
    二つのコップが置いてあります。そこに別の色の水をそれぞれに注ぎます。
    やがてあふれだすとコップの周りに水たまりができます。
    そこにはどちらに注いだ水とも異なる色だけれど共通の色の水たまりになっています。

    実際はそんなに簡単ではないでしょうが、当事者同士でも、当事者と非当事者でも、互いに共有できる何かはあるわけです。

    基本的に私は他人のことは完全に理解することはできないと思っています。
    コップに注いだ色水は違う色であって、片方がそれだけで別の片方と同じ色にはなれません。でも、コミュニケーションを取ることによってある臨界を越えてコップから水があふれると、混ざり合った部分は了解できるものになりえるのでしょうか。混ざった色だから他人そのものではないけれど、自分の色と混ざっている分、分かりやすい。その部分については共有できる何かがある・・・なんだかたとえがややこしくなりましたがそんな感じを受けました。

    頭の中で考えていてもしょうがないので、これから何かするとき、自分と相手の関係にどんなことが起こっているのか注意深く観察できるだけの余裕を持てるようになればいいなと思いました。

    現状、今の私では、その場その場を切り抜けるので精一杯。この本の執筆者の方々は自分が何かの渦中にいながら自分と周りの人を同時に冷静に観察しています。こんな視点の切り替えができたら日々の暮らしが楽になるのかもしれないとちょっぴり思いました。

    それがいいことかどうかはわかりませんが。

    自信(ストレングスモデル)

    「ストレングスモデル」チャールズ・A・ラップ/リチャード・J・ゴスチャ
    を読んでいるところです。

    自分の今の状況と重ね合わせていろいろ考えてしまうため、なかなか先に進めません。
    今日、立ち止まったところはここ。

    第6章 p167
     自信
     最初の一歩を踏み出す自信に欠けているために、目標達成に失敗してしまうということは多いものである。言い出す自信がなかったために、できなかったデートがどれほどあるだろうか。新しいことを試みるには、しばしばリスクを伴うものである。拒否されるという恐れは、チャンスをつかもうとする気持ちを思いとどめるに十分なものである。願望している目標に打ち込もうとするとき、同様のことが起こる。人々が自信をもてなくなってしまうときというのは、多様な理由があるものである。たとえば、過去の失敗を回想してしまったり、うまくいかなかったときのことを他人が話題にしているといったことは、挑戦しようとする気持ちさえ萎えさせてしまうかもしれない。

    (中略)

     精神保健システムにおける実践が、人々の目標の達成を援助しようとしてくれなかったり、自信を失わせてしまうことがある。できることに焦点を当てるのではなく、できないことに焦点を当てるということは、援助そのものを覆い尽くしてしまうものとなる。達成にむかう小さな進歩を認めることなく設定された目標は、人が達成感や動機づけを得る機会を失わせてしまう。クライエントの自己決定を過小評価することは、無能だというメッセージを送ることと同じである。

    いま、私は生活の場所を大きく変えようと考えているのですが、周囲はおおむね反対しています。医師は「現在地で地盤を固めろ」と言うし、ワーカーさんは近所の地域活動支援センターに職がないか当たるように言うし、JOBプラザでは「仕事より先に生活を」ということで職探しを後回しにするよう説得してくるし、不動産屋では前年度の年収を聞かれるし・・・。

    もっともだよ。

    もっともだけど、自分の希望に沿った支援をしてくれないというのをひしひし感じます。いますぐにでもなんとかしたいのになにもできない。強引に自力でやるべきなのか・・・?PSWの教科書とはまるで違った社会。パターナリズムで満ちた世界。

    (あなたのためを思って・・・。)
    それでどれだけの自信が削がれたか・・・。

     
    この本読んでると、そこらじゅうで自分に返って考えさせられるので、全然前に進みません。精神障害当事者としての自分と、ワーカーになるべく勉強した自分。どちらの自分も自信を失っていきます。

    いままでの失敗を振り返ると、周りが心配するのは分かるけれど、今までどおりではどうしようもないから、頑張ろうとしているのに。ひとりで生きているわけではないから、周りの意見はよく聞かなければいけないけれど。緩慢に殺されているのだろうか。

    自信を失っていく過程をリアルタイムで感じつつ読み進めています。
     
    清水の舞台から飛び降りてみようかな・・・。