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資格取得

無力

病に苦しみ、障害に苦しむひとに何もできない自分。

自分の障害体験から、想像しても、その人の苦しみは私のその上をいく。と、思う。

PSWとしてできることは何か。医師でも看護師でもなく・・・PSWなのだ。私は。

使える手札があまりにも少ないことに愕然とする。
苦しむ人を前に、その苦しみに共感することすらできない。
当事者としての立場から、何かを言えるのかといえばそんなことはない。
一人一人、別の苦しみがある。

「わかる」ことはできないのかもしれない。
見守ることしかできない。
ここで何か援助ができるかというと、本人のニーズに応えるのには私には力が足りない。
そして、援助を求められているわけでもない。

じっと見守るしかないのか?

自分が当事者だということでおろそかにしていたことの一つだ。
他者の苦しみを受け止める想像力。
そして、それに対して有効な方策を考える創造力。
対人援助職として、巻き込まれないように共感すること。

難しい問題です。

通院日に住居決定に退職打ち合わせに市役所とコンタクトに・・・

4月15日のひまわり
4月15日のひまわり

暖かい日になりました。

今日は通院日でした。

朝、不動産屋からTEL。物件入居OKが決定!5月1日受け渡し。

病院ではなにやら掲示物がいっぱい。
びっくりしたのは通院している病院の精神科医師4人のうち2人がこの4月で辞めていたこと。
臨時で助っ人を頼んで回しているらしい。当直とかどうなってるんだろ。
その合間に実習生も受け入れてるようだった。

で、大阪の病院への紹介状を書いてもらえるようにお願いしました。
受け入れ先を決めないと書けないとのことで、
4月28日にもう一度病院へ行って仕上げてもらいます。

会計を済ませて、書類請求の書類(ややこしいな)を出して、病院を後に。
門前薬局で薬を受け取って車の中で昼食。サンドイッチ。

こちらの市役所にTEL。精神障害担当の方は4月で転任なさった様子。
自立支援医療、障害者手帳、健康保険、転出届について
明日16日、新任者と面談することを約束。

前の職場にTEL。理事長がなにか煙に巻こうとしている感じ。大阪で仕事が決まるまでむにゃむにゃ・・・だそうだ。施設長からは、なにやらネットのドメイン更新に失敗したとのこと。きっとサーバーレンタルとドメイン管理を別物だと理解していないような気がする。他のサイトにドメイン奪われてしまったらしい。施設長は自分で何でもする人なのでこうなるのだ。部下の使い方を知らないから、必要なことを必要な時に聞けないのだ。そして、自分の技術は他のスタッフに教えようとしない。

家に帰って、定期購読している雑誌の継続手続き。郵便局へ。

不動産屋からメールが届いてないのでTEL。アドレスが間違ってたみたいで、
こちらから空メールを打って返信を貰う。pdfで必要書類をもらう。便利になったと思う。
詳細な住所・番地などの情報をもらう。これで住民票が移せるのかな?

契約に必要な書類はこちらでの住民票と認印と顔写真。保証人の契約時の印鑑証明。
それとお金。初回家賃と保険料、保証人組合へのお金と鍵交換代、不動産屋の手数料など。
敷金・礼金ゼロの物件でした。全部で13万位。高いか安いか?
クリーニング・畳の表替え・障子の張り替えはあちらでやってくれるそうだ。
物件は公園から至近距離にあり高校の向かい。角部屋。室内に洗濯機が置ける。

銀行へ行って、初回納入費用をおろしてくる。契約時に支払ってしまうつもり。
次回以降の家賃振り込みは家主さんの口座とやり取りするのに
都合のよい口座をひとつ作るつもり。

引っ越し先の就労・生活支援センターへ住所決定を報告。
担当者は他の利用者と面談中。
医療機関選定の参考意見をもらうために次回、大阪へ行った時面談できないか?と伝言。
通うに楽な所がいい。土曜日に半日潰して病院通いということになる。あるいは夜。
残業を考えると、夜の通院はリスクが高い。

こちらの市役所で明日の面談で必要となるものを聞くためにTEL。
住所がはっきりしたことで転出の届けが出せるか?というとこらへんがキモ。
が、担当者は会議で不在。電話を待つことに。

静岡の茶畑では芽が出始めました。
お茶刈りの頃には私は大阪の人でしょう。

・・・うまくいけばの話ですが。
自分を実験台に大いに勉強ができています。面白いです。

だが、わたしは重要なことを落としていることがよくあるのでそこを気をつけないと。
ブログ書いてる場合ではないのだが・・・
つうか、精神障害の当事者がこんなに動かないと引っ越しができないのはなんかもやもやと・・・。
・・・再発しませんように・・・。

さあ、あしたもがんばろう。今日私に巻き込まれた方々に感謝しながら・・・。

読みかけの本から考えた(2)

先日に引き続いて読みかけの本から。書かないと忘れてしまいそうだから。

精神科治療の覚書 (からだの科学選書)

p130 より

私は、精神病患者も、周囲の表情によって自分がクレージーとみられていることを知るのだ、と思う。周囲のあわれむような、やさしさを交えたまなざし”美しい”が何も内容のないことば―こういったものは、「君は今日は変だ」「君のいうことはさっぱりつかめない」といわれるよりも決定的な衝撃でありうる。彼は、何とか自分が正気であることを証明しようとする。しかし、ふだんの時には誰がわざわざ自分の正気を証明しようとするのだろうか。そしてどんな時でも証明するとなれば、論理を用い因果論を使い証拠を挙げなくてはならない。そして、これほどクレージーな印象を与えることはない。ことばによって正気であることを他人に証明する方法はおよそ実らない。この証明は他人にむかってなされると同時に自らにむかってなされる。この方は残る。そして、あるいは妄想の根となるだろう。
 おそらく、患者をことばで正気を証明せねばならないような状況に置くことは、患者の孤独を深め、絶望を生む。孤独な人に対して、それをことばでいやすことはできない。そばにそっといること、それが唯一の正解であろう。患者のそばに黙って三十分を過ごすことのほうが、患者の“妄想”をどんどん「なぜ」「それから」「それとこれとの関係は?」ときいてゆくよりずっと難しいことであるが―。

これは医者と自分の妄想について話したことのある方は実感をもってわかる文章だと思う。
自分にとって自明なことを説明し続けることはとても苦痛である。
妄想というのは妄想を抱いている者にとっては動かしようのない事実であり真実である。

最近、精神障害者の体験発表として様々な機会に体験談を話すということが行われる。何度かそういうものを見に行ったことがあるが(まだまだもっとたくさん見に行かねばと思うが)、その体験というのは病的体験のコアに触れるものではなく、社会復帰に際しての体験談であったり、生活における工夫であったりということが多いのではなかろうか。そして、そのような発表会では病的体験を語っても、あるいは話しぶりが病的になったとしても、冷やかに流され、聴衆にその体験を共有されることはない。あるいは、体験を笑い話に転化することもあろうが、それが了解されるということはなく、それゆえに病的体験なのであり妄想であるのだろう。

このあたり統合失調症について理解するのに重要な部分であると思われるのだが、実感を乗せてこれを語るというのは難しい。他者とのコミュニケーションというのは多かれ少なかれこの問題をはらんでいるはずだ。一般的に他人の経験を了解するというのはどういうことなのだろう?非統合失調症者同士での互いの理解というものは、非言語的な部分で行われるところが大きいと思う。その能力が失われた統合失調症者は途方にくれて、周囲からのメッセージを自らの文脈で理解しようとして失敗する。・・・のだと思う。

そこで、このblogを考えるのだけれど、軸としては私の体験をつづっているのであるが、本当に理解してほしいというところがまだ語りきれていない。と思っている。病気の生々しいところを語る必要があるとは思うのだが、言葉というものは難しく、かつ、人に了解される形で綴るには物語としての形を備える必要があるかとも思う。時間のあるうちに取り組みたいと思うのだけれど、今回取り上げたこの本で書かれているように困難は大きい。

今後の課題である。どうしてもやらなきゃいけないことではないので後回しになってしまうのだけれど、精神障害者に対する偏見を取り除くには、統合失調症の陽性症状を理解してもらうことは重要だと思うし、そして、それが各病者によって様々だということも含めて理解されることが必要だと思うので、なんとかしたいと思う。

統合失調症の妄想は奇怪だけど、陳腐だとも言われるらしい。そこをどう語っていくべきか。何を中心に語るのが理解を得るために必要か。いろいろ考えるべきところは多い。正気に含まれる狂気的なものも語りたいのだが・・・やはり理解はされないだろうか?

論理的ではない部分を、筋道を立てて語るというのは難しいと思う。自分の手に余るのではないかとも思うが、挑戦するには十分意味のあることではないかとも思う。

とりあえず大風呂敷は広げずに、少しずつ取り組みたいと思う。

読みかけの本から考えた

精神科治療の覚書 (からだの科学選書)

これを読んでいて、まだ読みかけだけど考えた。

p68 より

患者が「怠けていてはいけないから英語でもやろうと思うのですが」ということもあるが、その時も「君は怠けているのではなく治療(休養)という大仕事をしている」ことはまず前提として告げるべきだろう。改善の時に少し自他がブレーキをかけるべきなのは、下山のときとかわらなくて「『梅一輪一輪ほどのあたたかさ』かな」という告げ方が家族に一番判ってもらえる言い方であることも多いが、もう少し直接的に「良い芽が出てくると引っ張ってでも伸ばしたいのは人情かもしれませんが、それで草木はのびますか」といわねばならぬこともある。

私は精神保健福祉士を取っていく過程をリアルタイムで実況してきて、実際、合格まで来たのだけれど、周りからはどう見えているのか、今までと別角度で考えてみたりした。自分が回復を始めたころの状況でこのブログのような記事を読んだらどう考えるのだろうかと。

読み手のことを考えるというのはきりがない話であって、何を書いてもなんらかの弊害が考えられる。書き手にどこまで責任があるのかというと、ネットではネットリテラシーという考え方があって、情報の取捨選択は読み手側の責任も大きいわけだけれども、統合失調症からの回復過程から考えてそれを求めていいものかどうか迷いを感じるようになった。

潜在能力の芽を摘むことは良くない。ストレングスは最大限伸ばすべきだろう。でも、時期というものがある。休息の必要な時に焦って資格や学校に挑戦することを勧めるのは注意が必要だろう。でも、それは本人の自己決定によるものであるし、目標を持つことが生活の張りになることも確かだ。しかし、私の記事が焦りを招くことになったりはしないかと自戒をこめてよく反省すべきところだと思う。

そして、私は現在、自立へ向かっての引っ越し・就労が目標となり、それをつづってきている。

いままで、いろいろコメントをいただいてきた中で、気になっているものがやはりある。
ほとんどは素直に応援していただいているありがたいものだと解釈しているが、
私の記事に触発されたのか、何かに焦っている印象を受けるものもある。
私の自意識が過剰なためにそう思えるのだと解釈してきたのだけれど・・・。

なぜそこまで?という反応に、私自身戸惑ったりしたのだが、
彼らの焦りを私が誘発したのだろうと今は考えている。

師匠からは、私がblogにあんな記事を書く動機が分からないとは言われている。
ほとんど自己顕示欲が元ではあるのだろうが、他の何かが混じっている気もする。

精神障害者への理解が、私自身足りないのだと思う。
この本を読みながらそう思う。

しかし、このblogの読み手側にそのあたりを斟酌して読んでもらうというのは無理があるのだろうか?私の不完全さ加減はこれでもかというくらい強調してきたつもりなのだけれど。

今後も大きく方針は変えないで行こうとは思うのだけれど、読む側の想いというものがあまり返ってこないこともあり、危険なことを書いてしまうかもしれないと思う。でも、危険の向こうに目指すものがある気もする。

私が何を言いたいのかわからないと思う。
でも、そこをわかってほしいわけであり、私は私であるということを頭の隅に置いて読んでほしいし、それでいてコミュニケーションは取っていきたいとも思う。みなさんのことを信じていいですよね?

さあ、本格的に何が何だかわからなくなったところで切り上げましょうか。

 
 
大阪で師匠に言われました。「結局は本人が何を求めているかだ」と。
支援はそれに沿って行われると。

それはそれで精神障害の特性からして苦しいものなのだけれど・・・。
私だけなのだろうか?精神障害一般に拡げるべきものではないのだろうか?

私はむしろ人間全体に拡げるべき何かがあると思うのだけれど。

それが何かは今後じっくり考えます。
さあ、わけがわからない記事になりました。
わけがわからない人間が書いていることがわかればわかるわけです。