カテゴリー: PSW

反省しても反省できない

統合失調症なのだから・・・というと偏見になるのだけれど、
どうしても、当事者の相手にカチンとくるときがあります。
我慢したり、仕返ししたり・・・。あとで後悔します。

私の師匠も職場で利用者さんにだいぶひどいことを言われるようですが、
キレないように注意を払っているとのことです。

性格の変化は統合失調症の症状ととらえるべきなのか、
二次的に引き起こされるものなのか考えてしまいます。
教科書に出てたかなあ?基本なのかなあ?
素人が診断しても仕方がないのですが。
(深刻に悩んでいる方は多いと思われます。削除します)
統合失調症ではなく、意図的にこちらを怒らせようという別の障害の当事者なのかな・・・?(別の障害にスティグマを与える発言でした。撤回します。)

相手は公の場としてのネット上ではあるまじきことを平気で吐くのですが、
対応するのに同じレベルまで降りていって相手をするのがいいのか
あくまでも専門職らしく、礼節を尽くすのがいいのか悩みます。

(高飛車な発言です。取り消します。)

パーソナリティ障害との境目がどの辺にあるのかもまだ私にはわかりません。
人間50も近くなるとアタマが固くなるのか、反省の色もなく・・・。

(パーソナリティ障害の方に失礼な発言でした取り消します)

こちらが無駄なエネルギーを消耗しないようにするために「無視」という
方法もあるのですが、それは極力避けたいという気持ちがあります。
対話でなんとかならないものかと・・・。

自分が当事者なのにわからない部分です。なぜあんなに不遜な態度を取れるのか?
自分が入院した時の経験からも、現場実習に行った時もあのタイプはいなかった。
某地域活動支援センターで不穏な発言を続ける方を見たことはあるけれど
彼は他人が嫌がることは言わなかった。その方はとても頭が良い方だと感じました。

今回の悩みのタネの方は「頭が悪い」、もしくは「勘が鈍い」。
(私の主観をストレートに出しすぎました。失言です。撤回します。)

直接会えない以上、想像でしか相手を考えられないのですが、
今回、私の悩みのタネのご本人さんはどうも「病識」が欠けてる気配がある。
病気で能力が落ちているのを認められない。いわゆる「受容」が出来ていない。
どこまで付き合うべきか悩んでいます。
(病識を持つことや受容は難しいことです。出来ない方の気分を害する発言でした)
クライエントでもない人間にそこまで悩む必要はないのだけれど、
同病者と思って巻き込まれています。

悪気があるのかないのかもわからない。
(あれで本人が善意でやってるとしたらかなり重症に思います)(私は診断は出来ません)
ニュアンスが伝わらないのはネットの恐いところです。

責任が持てない以上、どこかで切り捨てるべきなのかなあ・・・?
「治す」のは医者の仕事だし、「治る」かもわからない。
(精神障害を寛解させようと努力している方に失礼な発言でした。撤回します。)
「医療」の視点ではいけなくて「生活」の視点から見るとどういうことになるのだろう?
限度を越えた発言には制裁が下ることをわからせるにはどうすればいいのか?
制裁を下す権限は誰にあるのか?
(私的な制裁は法で禁じられているはずでした。取り消します。)
私が怒ってもいいのかな・・・?ネットで怒っても効果ないけど。
怒りを買うのが極めて自然な「生活」上で起こってくる反応だと思うけど・・・。
でも、彼は同じことを他へ行って延々繰り返すのだろうな・・・。
そう思うと怒りではなくて、胸が痛みます。
(純粋に怒りがこみ上げてくるだけでした。修正します。)
そんなことを考えていると、もう一人の自分が自分に向かって
「自分が何様だと思ってるんだ!そんなこと考えられる立場じゃない!!」
って、叱り付けてきます。

自分の至らなさに自覚的にならないといけないなと反省することしきりです。
 
 
 
 
 
 

えーと、結論として今回は「相手はバカだ」と思うことにしました。
(訂:あきらめちゃダメですね)
なんであんな人格になるのかな?
あそこまで自慢にならない話を自慢する人はめずらしいよ。
(他人の自慢話はたいていそういうものでした。撤回します。)


追記 2009/02/06 9:40
同じ目線まで降りるというか、同病者なんで同じ目線でいるはずなんだけど、挑発的な書き込みに乗せられてつきあってしまうというのは「巻き込まれ」なのかなあ。統合失調症の人っていろいろだなあ。ピシャッとはねつけた方がいいんだろうけどネット上だと難しいんだよなあ。いや、それはもう同目線ではないってことか。

正直言って統合失調症の方であんなに性格の悪い人って見たことがない。みんないい人だったのに。私の経験不足なんだろうな。あるいは、単に私の対応ミスか。火に油を注ぐ私の未熟な対応。でも譲りたくない一線を越えてくるからなあ。あんな調子で毎日暮らしてたら統合失調症が嫌われる原因にもなるよなあ・・・。(私の内心に留めて置く部分でした。言いすぎでした。)


追記 2009/02/06 11:00
悩んでいます。自分に適性が無いのか?って言う方向と、どうすれば人のこころを知ることが出来るのかということに。

善意悪意問わず、私には理解できないことが相手の中にはあるわけで、それを捉えることができていない自分の未熟さに。

そう考えることは同じ目線まで降りていけてないんだろうなと思います。
降りるって言葉が出てくるあたりでもうダメなんだろうな。
でも、同じ目線でも同じレベルじゃいけないんだということも思います。
幸いにして悩む時間があるのが救いです。考えます。
「相手のためを思って」ってことがいかに難しいか。
相手を無条件に肯定するというのがまずはないといけないのだろうけれど、肯定しても良いものと悪いものってあるような気もするし。そこをあえて肯定していくのが筋なのでしょうか?

相手の真意を聞きだす前にはねつけてしまうのがいけなかったのか?
自分がPSWになったとしたら、自分の倫理観すら脇に置いておかなければいけないのか?私の倫理観ってなんだろう?くだらないことなのだろうか?
難しいです。

統合失調症を持つ人への援助論

「統合失調症を持つ人への援助論」 向谷地生良 著 を読みました。

  • 当事者研究が開く世界
  • 精神障碍者の生活拠点づくりの中で
  • 生きる苦労を取り戻す
  • セルフヘルプ・グループの意義と専門家の役割
  • 仲間の力
  • 生活の中での統合失調症の精神療法
  • 心理教育をどのように実践するか
  • 統合失調症を持つ人への行動支援
  • 地域におけるPSWの役割
  • 精神障害リハビリテーションにおける人材育成
  • 安心して絶望できる人生
  • 人が暮らす、生きるということ
  • 浦河でのSSTに当事者研究、認知行動療法、著者の経験談、当時者との対談、ソーシャルワーカーの考え方などについておおまかに書かれた本でした。

    本の最初は当事者が主体となった浦河での活動の話題から始まり、後ろへ読み進んでいくに従って、ソーシャルワーカーとはどんな心構えが必要か、今まで著者がどのような方向を向いて援助を行って来たかが語られていきます。

    私の最近気にしている当事者スタッフについても少し書かれていました。何か盗めるものはあるかなと思って読んでいたのですが、べてるでの当事者スタッフと他の各地域での当事者スタッフはそれぞれその場所ごとに特性が違うのだろうなと思いました。病院とべてると各種施設の連携。その背景をもって成り立っていく仕組みがあるのだと思います。地域を巻き込んで作り上げた浦河独自の生活の中で当事者スタッフの威力が最大限発揮できているのだと思います。

    当事者が医療や福祉に切り込んでいく時、それぞれの職場の特性を見極めないと、人と人との関係性で成り立つ仕事ですからいろいろ難しいことがあるのだろうなと思います。著者は広大な地域のたった一人のソーシャルワーカーとしていろんなものを作り上げてきています。でも、主役は当事者だということについてブレがありません。そんな著者の考え方の下に集まった当事者スタッフ&健常者スタッフの活躍が全国的に注目されるようになるまでになった原動力になったのだと思います。ただやみくもに当事者がスタッフをやればいいというわけではないのでしょうね。

    この本からではまだまだ表面的なことしかわかりません。この奥に隠された核があるはずです。書かれていない部分をなんとか読み取ってみたいところです。相談時のテクニックから哲学的バックボーンまで端々にヒントは出てきています。これを参考に自力で何かをひっぱり出すことが必要で、ただ真似するだけではいけないのだろうと思います。自分の背骨を作り出す一つの材料としてこの本を読み返そうと思います。

    おわりのほうに「ソーシャルワーカーのための五つの『すすめ』、七つの『わきまえ』」という章があり、いろいろ含蓄に富んだ文章が載っているのですが、そのうちの一つに【「知ったかぶり」のすすめ】というのが登場します。広く浅く知識を収集しておくことの大事さを説いているのですが、おもしろいことに、私の大学の先生(青木聖久先生)は「知ったかぶりをしないこと」を重要なことだと説かれます。両者の表面上のいいまわしは異なりますが、知識や情報の引き出しの多さが重要になってくるということで一致するのだろうなと思います。知識のきっかけをつかんだらそこから切り込んでいく。そして知識の正確性を上げていく。調査なり、専門家の援助を仰いだり・・・。チームプレイの考え方を違った切り口からとらえているのだと思います。

    いろいろ注目を集める「べてる」ですが、部分的にでもそれを越えた何かが出来る様になれたらいいなとうすぼんやりとしたアタマで思いました。

    久々に教科書から離れてのびのび読書が出来ました。
    ・・・・日曜日の試験はだいじょうぶなのでしょうか。

    まあ、なんとかなるさ。

    天狗になるかならないか。

    今日は反省していることについて・・・。

    まだ発表前だけれど、精神保健福祉士の資格が取れそうな感じです・・・。
    ・・・と、なって、最近自分がテングになっているなあと反省中です。

    まだスタートラインにも立ってないのに、みんなから持ち上げてもらってしまって
    「元気をもらった」とか言われてしまって、俺ってすごいのかも?
    見たいな感じに無意識になっていたようです。

    本当は私は全然変わっていないんですよね。

    ひとりの統合失調症の患者にしかすぎないのです。
    それなのに誰かを何とかしようとか思ってみたり・・・。
    反省しなくてはいけません。

    でも、その一方で専門職としての自覚と実力を養わないといけないです。
    難しいことだと思います。対人関係の適切な作り方・・・。援助のやり方。
    特にネット上でのやり取りでの注意点・・・。

    ピアとしての立場とPSWとしての立場。・・・両立できるのか?

    自ら開拓していかなくてはいけません。
    自然体でいることが一番なのでしょうが、進歩していかなければならない。

    「相手を変えようとしても変わらない。自分が変わっていくことが大事。」
    私の師匠の言葉です。自然体のままで変わっていく。難しいです。

    統合失調症を患って苦しんでいる相手を「変えよう」とする。
    それはなにか「正常」なありようががあると考えてしまっているからだと思います。
    「正常」なんてものはないのです。だから病気を抱えていても「そのままでいい」と考え、
    そこから援助していくのが正解に近いのだと思います。まだまだ勉強中です。

    毎日の生活で困っていることにたびたび出会い、苦しむ仲間に、
    ちょっと手伝いをするくらいのことが私の精一杯なんだろうと思います。
    それが自然にできるように「自分が変わる」ことが必要なんだと思います。

    しばらくブログを続けてきていろんな人と出会ってきたわけですが、
    中には私を救ってくれる方がいたり、励ましてくれたり、苦言をくれたり・・・。
    ありがたいです。

    どんな人も私を鍛えていくのに協力してくれているんだと思います。
    コメントをいただけない皆さんも温かく見守ってくださっていると思うと
    感謝しなくちゃと思います。

    ランキングに投票して支えてくださる方も
    無言のうちに私を支えてくださっています。
    黙って見守ってくださることが私自身で考えていくことにつながります。
    良いか悪いか。二つしか選択肢を用意していませんが、
    それだけでもたいへん参考になります。

    さらに多くのまったくの無言のみなさんもいっぱいいらっしゃいます。
    こんな私に関心をもってくださることがなにより励みになります。
    見守ってくださっている方は確実に増えています。心強く思います。

    ほんとうに私は恵まれていると思います。
    これからもみなさんに支えていってもらうことになると思います。

    元の職場を昨日の段階でほぼ離れることができそうです。
    雇用関係の解消にはもう少し時間がかかりますが実質昨日で切れました。

    それで、やっと落ち着いて、こんな文章を書いているわけです。
    次がどうなるのか、あてがまったくないわけではないけどほぼ白紙の状態です。

    自らの人生を切り開くために、いま、ここから、進んで行こうと思います。
    自分で立ち上がって歩いていけるかどうか。
    天狗にならないように、謙虚に一歩一歩行きたいと思います。

    皆さんのご指導をこれからもよろしくおねがいします。
     
     
     
     
     

    ・・・正直、あいつには指導されたくないって奴もいるけど、
    せっかくのこの投稿が台無しになるので黙っておこう。

    学校の課題が終わりました。

    やっとおわった・・・。

    うちの大学はインターネットで課題をこなしていきます。
    今やっているのは「障害者福祉論」。

    この教科には4回分の課題が用意されています。
    それぞれ20問くらいの問題があってそれに答えます。

    今日は後半の2回分をこなしました。
    教科書の範囲外からガンガン出題されるし、微妙な選択肢で迷わされるしで大苦戦。

    家にある小六法やら、ネット検索やらを駆使して、
    なんとかかんとかクリアしました。

    これで科目修了試験の受験資格が取得できます。
    で、試験は来週8日。

    どんな問題が出るか予想ができない・・・。
    今日やった課題しっかり復習しとかなくちゃ。

    あと少し。勉強は試験が終わってもずっと続くんですけどね・・・。

    どこまでもはてしなく

    試験の結果がどうなるかわからない今、専門学校の予想回答で合格っぽい感じなところ。
    みんながねぎらってくれる。素直にうれしい。正式発表までは気を許せないけど。

    生きているのがつらかった。
    いつまでも苦痛が続くならいっそ楽になってしまいたいと思うこともあった。

    いまでも楽になりたい。終わりにしたい。
    でもいろいろ勉強してみてわかったのは、なにもかもが終わりが無いことだった。

    まだ学校の試験は残っている。終わっていない。

    2月8日の試験のために2月1日までに課題を4つこなさないといけないのだけれど、
    内容は奥が深い。資格試験は合格点に届いても、勉強には終わりは無い。
    教科書を読めば読むほど世界、社会が複雑なのがわかってくる。

    課題には正解があるだろう。
    でも、社会には、いや、生活には正解は無い。
    楽にはなれない。終わりは無い。

    教科書には終わりがある。しかし、そこに書かれた問題には終わりは無い。
    ベストは無い。ベターもあやしい。

    全力で考えても、社会を、生活を、今以上に良くできるか分からない。
    現実的なところを、バランスよく。妥協しながら。
    満足できるか分からない。

    それでも前へ。
    どちらが前かわからないけれど。
    だからつらいのだけれど。

    自分の感覚を信じたい。

    でも、私の病気は自分の感覚を蝕み、迷わせる。
    何が真実で妄想で善い事で悪い事なのか・・・。
    転んでから気づくのだろう。
    これから何度転ぶのだろう。
    そして転ぶたびに前後がわからなくなる。

    楽になりたい。だから勉強する。でも気休めにしかならない。

    どこまでもはてしなく、終わり無く。

    でも、周りには同じように迷う人がいる。
    前はどっちか探す仲間がいる。たのもしく、たよりなく。

    みんなもなにもわかっていない。私もわかっていない。
    教科書の著者も、学校の先生もわかっていない。

    わかってない人が作った問題をわかってない人が解く。

    そう思いつつ試験の支度をしている。
    なんなんだろうね。
    なにしてるんだろうね。

    でも、単位を取るために、全力で・・・。私はバカだ。

    どこまでもはてしなく・・・。

    終わりってあるのだろうか、ないのだろうか?

     
     
     
     
     
     
    「SLAM DANK」の安西先生に聞くしかないのかな?