反原発運動と反精神医学の記憶
ちょっと古い記事だけど。
がんにかかって、現代医療批判に対して疑いを持つようになった。
いわゆる抗がん剤批判とか、反医療に関わる言説について、
その多くが論者の恣意的なものであり、エビデンスがない、
つまるところ頼りないものである事が多いらしいという事が見えてきた。
ひるがえって、反精神医学においていろいろな言説があるけれども、
精神医学での標準治療ってあるんだろうか?と言う疑問と、
反精神医学が反対するものはその標準治療なのだろうか?と言う疑問が出てきた。
標準治療に対して反対するならば反精神医学はそれなりの位置が了解できるのだが、
標準治療が行われていない状況に対して反対するのであれば、
一体何に反対しているのか?と言う疑問が生じてくる。
恣意的と仮定した医療の現状に対しての反対ならば、
標準治療が行われていない事に対しての批判だから、
精神医学の否定というスタンスはおかしいし、
標準治療に対する批判とするならば、
エビデンスで対抗する必要がある。
・・・この場合、何がエビデンスとなりうるのか?
大きな問題があるんだけれども、
患者の主観がエビデンスたりうるのかということと、
社会の側、医師の側からの観察がエビデンスになりうるのか?
と言うあやふやな状況が存在すると思われる。
だったら、あやふやなものに、断定的な反対を唱えるのはなんかおかしい気がする。
何に反対しているのかがわからないからだ。
さて、反精神医学とは何なのであろう?
オルタナティヴも同様に、本流が定まっているところに傍流があれば納得いくのだが、
本流ってあるのかな?
ふと、自分らが本流になりたいと思っているんじゃないかとの疑念が。
ここいらへん、私の勉強不足で現実を把握しきれていないのではあるが、
ひょっとして、世間の精神医学も反精神医学も、みんなまとめて確固たるものが
ない状況にあるのかもしれない。
それは人生が確固たるものがあらかじめ用意されていないこととつながってくるわけで、
それって、医療とは別枠の問題。
ということは、なんか肯定否定で論じるものではないという事になる。
じゃあ、反精神医学もオルタナティヴも「押し付け」になるようならばおかしいわけで。
当然のごとく、個人の人生に介入しようとする動きは、なんか違和感がある。
ならば、こうするといい、ああするといいと他人に勧めるのはなんかおかしい。
情報提供にとどめるならまだしも、糾弾したり、拡散させたりするのはどうもね。
というわけで、反医療本に反する本が出てきにくいところはそこらにあるんだろうなと。
反医療に関わる人で、他人に吹聴してまわる人に出会ったのだが、
・・・なんかね・・・。
という疑問からの長文でした。