カテゴリー: 統合失調症

がん

やなせたかし氏がお亡くなりになって、死因は心不全との報道がありますが、
膀胱がんを患っていてそこから肝臓への転移もあったとのこと。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131015-00000056-nksports-ent

がんの発見率が上がったのか、がんが増えたのか、わからないけれど、がんでなくなる方が多くなっている気がする。

自分は腎臓がんが肺と脳に転移して
なんとか生き延びているに過ぎず、遠からず迎えるであろう死までに
何ができるのかあがいているところだ。
幸い、仕事が出来るまでの体調を維持しているのだが、それもいつまでもつのか。

人はだれでも死ぬと簡単に言えるが・・・。
それが早いか遅いかというだけだというのは正しいが。

正しいだけだ。

当事者性を欠いているのは責めるべきところではないかもしれない。
誰も他人のことはわからないのだから。
誰もが自分のことについてのみ当事者なのだから。

では、他人との関わりとはなんなのか?
社会を作って暮らしている中での自分の死とはなんなのか?
損失なのか、負担の軽減なのか。

他人のブログにトラバ飛ばしてこのコメントがあった。
記事はずれていたけれど。

引用する。

何の権限があって、彼奴は癌患者を代表しているんでしょうね。
自分の不幸以外何も背負ってないし、他人の厄介事なんて背負う気もないだろう。

癌患者にも誰かさんのように、確かにこの世に生きていた証を残そうと負け犬根性全開の人間もいれば、あとを濁さぬ水鳥のように華麗に去る人間もいる。
それだけのこと。

ブログ村周辺では良く知られた荒らしの発言であるから蒸し返しても意味は無いが。
彼の言ってることは自らの立ち位置を明らかにしないでの発言であるゆえ、
ただ形があるだけのまるで空疎なものになってしまうのだが、まあ、それは置いておこう。
相手にするのは嵐の思う壺なのだけれど。
まあ、書き手の希望は相手してもらうことにあるのだろうから良いだろう。
・・・いちいち相手することもないわけだが。

まあ、考えるところはある。
自分は一体どれだけの死と対峙してきたのだろうか。
死との対峙は、その人の生との対峙でもある。
死とは何なのか?分からないゆえ反対側から見るしか無い。
生きているから死ぬんであって、生きながら死に直面する状況でそれが何なのか現実味を帯びてくる。

統合失調症を起因として死に直面した方も多いと思う。
毎日死んだほうがマシだと思ってる方も多いと思う。

で、自分が死に瀕してみて思うのは、
自分には現在しか生きられないということだった。
過去に何をしたかも、未来に何を残すのかも生きるということについては
全て現在に集約されてしまう。

時間は刻々と過ぎていく。流れているようだが常に自分には現在しか無い。
歴史というものは現在から見たものであり、現在なくして歴史はない。
未来という可能性や絶望も現在なくしては存在しない。

現在どれだけ足掻けるか。苦しめるか。楽しめるか。いろいろあるが・・・。
今さえ良ければ良いというのでもない。
逆に現在は未来も過去もその中に含んでいる。

死というのはそれがすべて断ち切られることであって
世界全てが断絶するわけで・・・。

理解は到底不能なものが周りにゴロゴロしている。
ゆえに考えこみつつ行動する。考えても答えは出ないからずっと賭けを続けているようなものだ。

やなせたかし氏は「まだ死にたくねぇよ面白いところに来たのに俺は何で死ななきゃならないんだよ」と生前語っていたそうだ。

自分はまだまだ面白いところまで来てはいない気がする。
しかし、面白く無いのは、現在、面白く生きてないからであって、自らの責任に帰するところだろう。

こんな駄文を連ねるのは少しでも面白くするためでもある。
中二の頃の面白かった自分を取り戻すためか?
実際の中二の頃はかなり苦しかったが。

今も苦しい。

でも、面白くしたい。

がんにかかりつつ毎日子供を見ながら仕事に追われ・・・。
精一杯だけど自分の手が届かないところにいろんなことやものがある。
頭の傷でクラクラしながら・・・。

結論なんて無い。不全感を述べたまでだ。せめて精一杯・・・。
 
 
アクセルは底まで踏むものではないと自戒しつつ・・・。
馬鹿は馬鹿なりに生を全うせねば。

癌細胞に生存権はあるのか?

問題のたて方が間違っとる?

異物を排除する論理に則って癌細胞を根絶するがいいのか
癌との共存を図るべきなのか。

しかし、癌は死と裏腹なのは、脳転移で痛いほどわかったし。

多細胞生物として各細胞の生存にウェイトを置いて意識が活動するならば
癌は根絶やしにしたい。
でも、癌細胞も細胞の一員であることは確かだ。

生物が遺伝子の乗り物であるならば、
遺伝子に最適な振る舞いをするべきなのか。
傷ついた遺伝子は他の遺伝子にとって敵なので排除すべきか。

そんなこんなで午前4時はろくなことを考えない時間です。

今日は通院日です。
アカさまの面倒を午後半ばまでみたあと
病院に滑りこむ予定。

もうね、がんに罹ったことにも意味があると
宗教者に言われてもねえ・・・。
意味があっても・・・。

まあいいか。

権利主体ってのは人だから、細胞じゃないんだよね。
ただこの考え方の延長上に出現するものは・・・・。
異物の排除の正当化の論理なんだよな。

どう考える?

ん?

確定診断をもらわねば

アカさまがどうやら突発性発疹だということがわかってきましたが、
運悪く昨日は祝日。

今日一番で医者に行って見てもらって確定してもらおうと思います。

とはいえ、医師のプライドを傷つけないように、
勝手に診断をこっちがしたようなカタチにならないように気をつけよう。

ただいま、超絶不機嫌なアカさまをもう数日面倒見なければいけないです。
治りかけに機嫌が悪くなるこの病気。
こっちの体力がもつかなあ?

仕事のほうが深刻な状況に追い込まれる可能性もありつつ、
怒りをある方向に向けつつ、
知り合いの相談を受けたりなんかしつつ、
やんやんの愚痴を聞きつつ、

・・・アカさまの離乳食が1段階戻ったのを私のお小遣いで
調達したため貧乏に喘ぎつつ、
水曜までには通院に行かねばならない状況に陥りつつ、

・・・来月早々には脳のMRIが控えております。

NHKでがんサバイバーについてハートネットで取り上げておりました。
今更サバイバーも何もあったもんじゃない。

生き抜くというのは生活に追われることであって
言葉でごまかせるものではない。・・・と最近思います。

気の持ちようを変えても現実は襲いかかってきます。
死にたくても死ぬわけにはいかんのよね。
毎日の積み重ねが何かになっていくのです。

それだけにアレが甘く思えたり
ソレが嘘っぽく思えたりと
バッサバッサやりたい気持ちを抑えつつ今日も生活に追われていきます。

何とはいわんがもにょもにょする。
しかしソレどころではないので関わらんのだ。

フォローあるいは新たな火種。

しばらく前、ある集まりで遺骨から商品を作って商売にしてる人に会った。

その人が薦める本がコレだ。

その方の旦那さんは交通事故で突然お亡くなりになったということで、
別れの時間が持てなかったことを大変悔やんでおられました。

が、

癌患者前にしてそれ言うか?

統合失調症で苦しむ人に「統合失調症っていいですね」というに近い。
いや、実際、そんな感じのこと言う人いるけどさ。

物事をプラスに転じるのもTPO次第なのですよ。

統合失調症の陽性症状出てるときのつらさも陰性症状の苦しさも、
寛解すればチャラになって経験として前向きに捉えようって…。

違和感感じるのだけれど。

病気だよ。

我々は選ばれた人間でも何でも無い。病人であり、その後遺である障害に苦しんでいるのだ。

ナラティヴなアプローチには違いないけれど、
違和感感じないのか?

感じないならそれはそれでいいです。
多くは言うまい。

とりあえず、病気を求める人間はそんなにはいないわけだけど・・・。

たまにいるんだな・・・統質ワナビー的な人。

色々考えさせられるところではあります。

で、とりあえず闘病しつつ仕事していろいろやってイライラしているな。
手の届く範囲の精一杯、プラスアルファを求めてカリカリしているのです。

少しずつ考えていこう。

通院日

今日は精神科。

もう通院だけでどれだけの時間を潰しているのやら・・・。

疲れてるけど行ってきます。

精神が不安定な今日このごろ。なんとか立てなおして・・・。

・・・無理だな。