今日は書類3セット揃える作業で忙殺されそうです。
で、関係ないのですが、どう考えても自分の認識と異なった見方で
世界を捉えている人への対処について。
認識が異なるというのは認知の歪みも含めて
最近の政策論議なんか見てても思うのだけれども、
同じ物が提示されているにもかかわらず
異なった見方で、あるいは考え方で物事を捉えてしまう現象が、
大変問題を引き起こしております。
一般的な認識っていうものがあるとするならば、
それから外れれば「狂い」とされるわけだけれど、
障害による妄想などを抱えていても社会生活ができるようになるためには
認知の歪んだ状態でも生活できなければなりません。
それがノーマライゼーションと結びつくのであれば、
かなりおかしなことを言っていても社会の側でそれを吸収、
あるいは緩衝せねばならないのかと思われます。
障碍は社会の側にあるとするならば、
おかしなのは社会の側?
さてさて、この言説。
どこまで拡大解釈ができるものなのか?
社会を作るのは各個人間の議論等による合意によるわけですが、
頓珍漢な認識というものもあるわけで、
そこは疾病といってしまうしか無い。
疾病は医療の対象となるわけだけれども、
果たして、個人の思想や感情を医療の対象にするのはどんなものか。
現在進行形で私の周りで起きている
「一方的な思い込み」と「政治的信念のぶつかり合い」
この両者の決定的に分けるものはなんなのか?
ノーマライゼーションのためには同等に議論の俎上に乗せるべきなのか?
全く頭の痛い問題なのですが、
このへんの議論について深く考察されたものって
なんかあるんでしょうかねえ?
あったら知りたいのでご一報を。