カテゴリー: 統合失調症

弱すぎることについて

大阪に来てから、阪神タイガースの動向に気を使う事が多くなりました。
連れ合いはタイガースファンです。負けると非常に心を痛めております。

今年の阪神は現時点でリーグ5位。
昨日は最下位DeNAに11−5で負けております。

この状況について、「今年の阪神はダメだ」とケチョンケチョンな言われようです。

阪神の選手は必死に生活をかけて闘っております。
しかし勝てない。

それを鞭打つように冷たい言葉が影でかわされております。

果たしてこれはいじめかというと、世間ではそうは取られない。
正当な評価とみなされるようです。

なぜ正当かといえば、ルールにのっとってのスポーツであるからか?

翻って、我々の社会では?

いじめというのはルールにのっとった行為なのか?
往々にして、いじめの理由には、社会のルールからの逸脱が挙げられます。
その社会というのは、大きな意味でなく、友人間における小さな社会です。
そこでの暗黙のルールから逸脱すると制裁という名のもとにいじめが発生したりします。
いじめる側は、それをもって自分を正当化するわけです。

ルールを作っているのは誰かということに目を向けた時、
弱者強者の関係があらわになってきます。
強者の論理でルールが作られる。

強者というのは誰か?

往々にして不特定多数の暗黙のルールだったりする場合、ことは厄介です。

それを防ぐために法律というものがあったりするわけですが、
現在、立法府の状況を見るとこれがまた惨憺たる状況なわけです。

 
 

誰かを批判するだけでいじめが成立すると思ってる方もいらっしゃるようです。
そして、現在の社会ではいじめをする奴はルール破りだから、
制裁を加えてもいいと考える向きもある。

そのルールは誰が作ったの?

いじめを行う人間は頭がわるい訳ではないよ。
勝手にルールを作って適用しているだけです。

勝手に解釈をするにあたって、自分ルールを適用するわけです。

自分ルールの適用というのは、「個性」の尊重と裏腹でもあります。
自分の生きたいように生きるにあたって、自分ルールを持つのは大事です。
劣等感からのものではない。ましてや害悪でもない。

 
 
さて、我々精神障害者は世間から不当な差別と正当な区別を受けております。

この境目は「ルール」にあるわけです。法律が主なものです。
法律というものは「成文法」「実定法」だけではないということに注意。
いわゆる裁判員制度が成立する要因の「市民感覚」「常識」にもよるわけです。

さて、まだ裁判員制度は重大犯罪にのみ行われているのでありますが、
この「市民感覚」「常識」で市民に裁判が身近になった場合どうなるか?

正当にいじめが成立する可能性が出てくるのではないでしょうか?
いじめというより、人権侵害なわけですが、
刑罰を課すというのは言ってみれば「正当な理由を持った人権侵害」です。
罪刑法定主義に基づいて厳しく枷がかけられていますが…。

この構図が、現在のいじめとダブって見えて仕方ない。

「公共の福祉」に反すると判断されればバッサリです。
これに市民意識が持ち込まれれば精神障害者は現状、どこまで対抗できるのか?

恐ろしいことに今の社会には「社会的制裁」というものが存在します。
量刑判断にこれが考慮されちゃってるくらいですから、存在するのでしょう。

 
阪神タイガースには関西人による社会的制裁がくだされます。
精神障害者と重ねて考えるにいたたまれないものがあります。

しかし、大きく違うのは関西人はタイガースを応援しております。
愛してやまないといってもいいでしょう。

精神障害者は社会から愛されているのか?
 
 
どう思います?

弱いというのは「愛されない」ということではないかと考えます。
この状況を変えていくには精神障害者が愛される存在になること、
一般的に言われる「強くなる」というのはちょっと違うと思われます。
 
  
 

そして、人間は皆、愛されようと必死です。
自己愛に溺れてみたり、愛されるために愛してみたり。

よって、人類は皆障害者なのですといつもの結論に無理やり持ち込んでみたり。
 
自分は愛されて幸せだと思ってる人もいるかもしれませんが、
そういう幸せな方は別の欠陥を持っているような。
いや、ヤッカミではなくてですね・・・。
それはそれで障害っぽいというか。

 
 
とにかく、結論としてまとめますと、阪神は弱い!
でも、その障害を乗り越えて愛されるがゆえに強い!ということです。

だから愛される人間になりましょうとかは言わないよ。
愛されようと必死な人間はとってもさもしいと思うもの。
分をわきまえてほどほどに。

障害者の権利を獲得するにはタイガースを見習わなければいけないなと。
そう思うのでした。

しかし、世の中不穏だな。
発達障害のせいで量刑が重くされるなんて何ごとだろうか。
「公共の福祉」に対して考えを巡らす必要があるなと思います。
 
  
一般市民は障害者よりタイガースに興味があるってのも現実です。
今ひとつ建設的になれない今日このごろなのでした。
 
 

タイガースが負けるから悪いんだ!!きっとそうだ!!

ひと・まち交流館 京都 をのぞいて来ました。

お目当てはここのランチ。

喫茶「ぴあ ひと・まち」
http://www.hitomachi-kyoto.jp/floor_01_kissa.html

車で行ったら京都市内はタクシーが路上駐車しまくっていて非常に運転が怖かったです。
京都駅付近から北上して行ったら右折して入らないとならないことになって困惑。
結局近くの路地裏に入り込んで1時間100円の有料駐車場に停車。

風情のある川沿いに歩いて突撃してきました。

時間が悪かったせいか、自分らの他に客がいない。
しかもランチが終わってしまってました。

接客どんな感じにしてるか見たかったんだけどな。
 
暇な時間帯らしくって、店員さんたちは談笑中。
私らが注文した後も和やかに談笑しておられました。
穏やかな空気が流れる喫茶ではありました。

奥の厨房で数名働いてらっしゃる様子が伺えました。

突っ込みどころは多数あったけれど、まあいいや。

商売っ気の無さ加減が印象的でした。
そんなもんなのかな?

場所、設備は良いので、なんかのついでに寄るのには良い所に思いました。

 
 
 
 
 
  
 
オリジナルランチ食べたかったよう。

健常者との対話。は疲労する。二次的障害について。

障害に理解ある人とでもやはり健常者との対話は気を使います。

何に気を使うかというと、障害について気を使わせないように気を使う。

・・・ということに気を使っていることについて気付かれないように気を使う。

ことによって、疲れていることに気付かれないようにも気を使う。のでした。

 
なんだかね。

社会復帰して健常者に紛れているとオープンだとこの苦しみがあります。
クローズだとこの苦しみはない代わりに、
気を使ってくれないことによるハードな待遇が待っています。

なんなんだろうね。

理解されることによる、この居づらさ、生活のしづらさってのは。

一種の社会的障害。二次的障害。体験としての障害?

ジレンマの一種ではあるのですが、気にしない様に心を鍛えなければいけませんかね?

 
 
 
今日は近所に街宣車の群れが多数押し寄せてきていて圧倒されました。
彼らには、精神障害者の持つマイノリティとしての繊細さとは対極にある
マイノリティとしての傲慢さがあるような気がします。

だって、路上駐車で幹線道路渋滞させて平気だもん。

主義主張を表現するのに、ああするしかないのかと疑問に思います。
つうか、これってデモとかにも通じることであるわけで、
原発反対デモや、貧困撲滅デモなんかはどうなんだと言われてしまうと、
同列に扱うべきかどうか悩むところです。

意思の表示にもっとスマートな手段はないのかなあとか、
障害者の権利を主張するにあたって同様のことをしていいものかと悩ましかったり。

私は、暮らしにくさを感じているすべての人間は障害者であると思う故、
健常者なんて一人もいないとは思うのですが、
自分を健常者だと思っている人は、健常者なのだろうかとも思うわけで、
そこは個人の意識にかかってくるのではなかろうかとも思います。

街宣車を見て思うのは、ああ、彼らも障害者なのだなあ。・・・とか。

不謹慎でしょうか?危険でしょうか?障害者に入れてはいけないのでしょうか?
彼らは暮らしにくさの改善を目的とはしていないのでしょうか?

・・・行動障害・・・という言葉が脳裏をよぎったところで黙っといたほうがいいなと思いつつ、自己の暮らしにくさを感じない人達がいる可能性はあるのかないのか、感じないというより、気づかないというパターンもあるのか?ある場面では障害者で、違う場面では障害者ではないという多面的な人間存在をよく認識せねばいけないのだろうかと色々考えを巡らせます。

少なくとも、完全に健常な人はいないのは確信してはいるのですが。

だったら、障害についての枠の考え方を再考し、国やら自治体の施策は違った軸で組み替えなければいけないと思うのでした。

「生きづらさ」ってのが蔓延しているあたり、根っこは深そうです。

帰宅

某所の作業所喫茶店を2カ所、授産品販売所を1カ所見てきました。

うーむ。

どこも似たよなもんなのね。って感じです。後ほどレポート書くかも。

一日じゅう車運転してへとへと。

今日はもう、休眠しますです。

他自治体のやり方を見てこようというのもあったんだけど、

空振りでした。・・・抜き打ちじゃこんなものなのですね。

明日に備えて早く寝よう。