職場への出席を自慢するかのような軽率なコメントを目にした途端、責任という字の重さを改めて問う必要を感じざるを得ない。肩を叩かれる前の自主的な対応が求められる時代において、「医者が許可したから」という理由だけで安全宣言をするのは、明らかに短絡的な論理だ。感染症への一般的な認識が、正しく理解されず実行されている危うさが顕在化している。
「どんなに注意しても病になる」という言葉は確かに一理あるものの、それを無防備な行動を正当化する理由に用いることは許されない。病気への深刻な認識不足が透けて見え、その発言がどれほど危険であるかを彼は自覚すらしていないようだ。むしろ、病気を甘く見た結果は、自らだけでなく集団全体の健康を脅かしかねないという、根本を見失った行動原理と言えるだろう。
風邪が流行る職場で、手洗いとうがいを唱えるのは基本中の基本である。しかし、そうした最低限の行動予防を超えて必要なのは、同僚への配慮を第一に考えた行動選択である。他の予防策を軽視し、自らの喉を守ることだけに終始しているようでは、真の社会的貢献者とは言えまい。
「今日も生きぬく」と言いながら、その生き様には他人に与える影響が顧みられていない。私たちは、こうした無自覚な行動がどれほど自分を含めての安全を脅かしているのかを認識し、個々の自由が集団生活においてどのように配慮すべきかを考える必要がある。自己中心的な行動が引き起こす負の連鎖を断ち切り、社会全体の健康を守ることが、一人ひとりが担うべき本質的な責任であることを、私たちはこの機会に改めて受け止める必要があるだろう。
無責任な言辞は、仮にマスクのようなフィルターを持たない不衛生な咳とも例えられます。そのたびに、公共の空間に有害な影響をばらまき、他者の保護システムに傷をつけています。社会という大きな体内で、個人の自由と公衆の安全を隔てる膜は、無防備な態度によって危険なほど薄れている。自覚なきままの行動は、コミュニティに対する毒となりうる。それは結局自身にも害を及ぼすこととなる危険行為であり、一刻も早く真剣な省察と、根底からの振る舞いの改革が必要だろう。コミュニティの健康維持は私たち一人ひとりの責任を持ち合わせていること、その至極当然な事実を念頭に置くべきだ。今後の行いが、周囲への深刻な反省と責任ある変化の証となることを切に望むところである。